のちに最高裁判事となった田中二郎の論文を引用しよう。
「租税法雑感」自治研究25巻10号39頁、増井良啓が「税務執行の理論」(財務省財務総合政策研究所「フィナンシャル・レビュー」October-2002)の中で旧字改めてP.179に引用したものである。
たいへん批判的で興味深い。
読者諸氏に一読してもらえるとうれしい。
「これまでのわが国の租税制度は、たしかに、民主的な制度とはいえないものであった。従来、特に終戦以来、一方、国又は地方公共団体は、専ら、その財政需要に基づいて、税制を一方的に決定し、企業の健全な発達を考慮するでもなし、国民生活の保障を意図するでもなく、税制全体の合理性の反省もしないで、ただ、膨大な歳出予算に充てるために、国民からとれるだけの税をとるという見地から税制の改正をしつづけてきたといってもいいすぎではない。こういう調子であるから、他方、これに対する国民の側では、これを自分達の何としても納めなければならぬ税というふうに考えるわけもなく、これに対して強い不満を抱き、何とかして、いくらかでもこれを免れようともがくという状態であったことを否定しがたい。
税法は合法的に制定されたものであるが、それは、実質的に民意に基づきその反映として生れたものではなく、国が一方的に決めたものであり、国民は、これに対してソッポを向き、非協力的態度に出て、税法を理解しようとか、これを合理的なものに改正しようというような積極的・建設的な努力を払おうとはせず、私かに(ママ:引用者)、非合法的な脱税に苦心する傾きさえ見られた。これでは、民主的な租税制度とはいうことができず、近代的市民の態度ということもできないわけである。
憲法や法律の建前だけからいうと、わが国は旧憲法の時代から、租税については、特に厳格な法治主義をとり、租税法律主義の建前を堅持してきた。他の分野においては、憲法そのものが行政権の広範な裁量を認めているに拘らず、租税に関する限り、近代法治国家の原則に従って、行政権の自由な裁量を否定し、納税義務者・課税物件・課税標準及び税率のすべてを法律を以って定めるべきものとし、法律によるのでなければ、租税を賦課徴収することができないことを建前としてきた。ところが、実際上には、特に終戦後においては、租税法ほど、法律の規定通りに行われていない分野はないといってもよい位で、法律の規定は、或は無視され或は歪曲された。厳格な法律の執行でなければならぬ租税の賦課徴収が、しばしば、徴税権者と納税義務者との話合によって片づけられた。租税法律主義は、実質的には、殆ど無視されていたといってもいいすぎではないであろう。」
どのように感じられたであろうか。
われわれ税理士は、日々、納税や徴税の現場で、いろいろなことを目にする。
一方では、クライアントに対して、守秘義務をはじめとするプロフェッショナルとしてのパターナリスティクな忠実義務を負い(税理士法1条「納税者の信頼にこたえる」、また契約上の義務でもある)、
また、他方では、国家に対して、独立公正な立場に立つことを誓う(税理士法1条)。
一見、相反するかに見えるこれらの二つの義務は、我々の現実の業務にわたり、深く体に浸み込み、その時々に複雑に絡み合い、個性豊かな税理士像を生み出しているのである。
私は、田中二郎が、どのような経験や論拠に基づいてこれだけの批判をしているのかについては存じ上げないが、近代以前の租税とは、おそろしく不合理なものであったのであろう。
最近の税制改正は、すこぶる納得いかない。
もう少し、議論を醸成してから、法律にするべきである。
産活法などの、破産関連分野も少し行きすぎではないかと思っている。