ひさびさの税務調査に、疲れ果てて家に帰ってくると、下の娘が
「パパにプレゼントがあるの」
と言って、持って来たのは、私が元旦の日に手作りで作ったお年玉袋だった。
表が書き換えられており、読んでみて思わず吹き出した。
「がんばってるパパへ パパならできる しけんごうかく みのりより」
中にはあめ玉が三つ入っていた。
あいかわらずおもしろいやつだ。
娘はあめ玉が大好きだ。宝物のように、こっそりとあめ玉を蓄えている。大切な宝物をパパに三つもくれたのか。私は不覚にも目頭が熱くなった。
「本当は合格してほしくないんだけど」
「えっ?何でよ?」
「だって、てんきんでどこに行くかわからないんでしょ?」
まいった。
馬鹿なのか、賢いのか、いまひとつよくわからないやつだが、さしあたり、娘を抱きしめることしか、私には何も思いつかなかったのである。
試験の日まで、あと117日になる。
言い訳をする気はないが、仕事が結構忙しい。大きな仕事がたてつづけに入っている。
氷見にある勉強部屋にはまる3日行っていない。
「ちくしょう!」
私はひとりごちた。
まともな就職はこれが初めてであったので、結構緊張感にあふれた仕事をしていたものだ。先生にほめられては調子に乗り、次の年には税理士試験に合格してしまった。お祝いに今はなきDCブランドのダブルのスーツを買って頂いたのを今も大切に着ている。
さて、初めて担当させてもらったお客さんは、法人組織の和裁屋さんだったが、訪問させていただくたびに奥様から経営哲学を教えていただいたものだ。
若かった私には、すべてが目新しく、何でもかんでも覚えて行ったが、その中で今でも思い出すのは、「損して得とれ」という言葉である。
難しい言葉ではないので、説明不用かも知れないが、私なりの解釈をしてみよう。
世の中にあるものを、「損」と「得」とに分けるとする。一見、簡単に分類できそうなものだが、実はそうではない。「得」に見えることも、よくよく考えると、「損」だったりする。
この辺りまではモノの見方が難しい、という話に過ぎないのだが、実はこの先がある。
「損」だ、と思ったことであっても、「得」であることもある。結局は、やってみなければわからないだろう。かえって、「損」の中にこそ、大きな「得」が隠れているかもしれない。一目で「得」だとわかることなら、誰もが寄ってくるだろう。しかし、一目で「損」だとわかることなら、競争が少ない。一生懸命に「損」に取り組み、その中から「得」をすくい出していこう――
いかにも古き良き日本を思わせるような言葉ではないか。
当時の私には自分がこのような発想になれるとはとても思わなかったが、一つの哲学として敬意をもった。
いいか悪いかはともかく、この人は果敢に他人が嫌がることに取り組んでいった。つらくても苦しくてもめげずに質素倹約を続けていったことだろう。
今どうしておられるだろうか。あれからすでに10余年が過ぎ去っている。
「損」の中に果敢に飛び込む。「得」が落ちているのに、あえて「損」を拾う。
このような逆転の発想は、もちろん、限度がある。小賢しい功利主義的な発想に見えるかもしれないが、ある選択をする際に、その効用と損失の期待値との比較考量を忘れるべきではない。
アメリカのハンドという裁判官が次のような公式を作った。
効用<蓋然性×損害 → その行為をやめるべきである
これは、ハンドの公式と呼ばれ、それなりに業界では有名である。ある選択をする際に、それによって得られる利益と失われる利益を天秤にかけるというわけだ。
おっと、私はどちらかと言えば、日本風が好きだ。
あえて、「損」を探し、飛び込んでいくタイプである。
当時は自分にはとても無理だと思ったのに、ふと気がつくと、自分もそうなっていたのだ。
不思議なものである。
だから。こんな私だから、ハンドの公式を自分に言い聞かせているのである。
大晦日を氷見の生家にこもってひっそりと勉強して過ごした。
風光明媚な場所で、十二町潟には白鳥が降り立ち、空には鳶が舞う。
小鳥たちのさえずりと、まだ赤い木の実が残る。
静かに、そして静かに、年が深けていくのだ。
今は井口本江の自宅に戻ってきた。
イオンの方がサイレンで騒がしいのも年末の風物か。
平成17年も、18年も、たいへんな年だった。
会社のみんなにも苦労をかけた。
来る平成19年は、自分にとっても、会社にとっても、すばらしい年にしてみせよう。
行く年、来る年。
昨日はもうない。明日もまだない。
一瞬一瞬を大切に、このひとときに全力を尽くす。
堅実に、自分のできることを一つ一つ実現していくつもりだ。
本年も、どうぞよろしく。