震度5。
かつてない経験にさすがに仰天した。
さしあたり、近所の様子はなんとも被害がないようだ。
東京にいた頃は、すっかり慣れっこになっていたが、
ここ富山県ではめったにないことである。
だいたい半世紀に一回くらいあるという説もあるが、私はまだ半世紀を生きていない。
心配になってさっそく氷見の生家を訪れてみたら、案の定、2階の床の間の内壁が崩れ落ちていた。
氷見でもそれほど大ごとになっている様子はないが、
テレビで見る限り、能登の方はひどいようだ。
会社が大丈夫か、ちょっと気になってはいるが、
古いとはいえ、鉄骨作りなので滅多なこともないだろう。
予定がつまっており、時間がなかった。
心配してくださった方々へ、いちおうご報告のつもり。
仕事柄、私は政治や宗教、その他いかなる多数にも属さないことを心がけている。
クライアントには様々な立場の人がいらっしゃるし、
私の目が利益で曇るようなことがあってはならない。
時には自分の利益さえかなぐり捨てなければならないこともあるのだ。
とまあ、こんな調子でものを書いていると、
「ハイハイあなたは聖人君子でしょうよ!」
「面白みのないやつだ」
などと、冷たい批判が飛び交う(^^;。
どうやら旗色が悪い。私はよっぽど厭なやつなのかもしれない。
しかし、私を知る人間たちは、決してそんなことは言わないだろう。
竹林の七賢よろしく、哲学めいた話を述べ立てるこの男は、
実はたいへんな俗物きわまりない。
自らをおとしめるようなことは、さすがの私にもできかねるので、詳しく書いたりすることはしないが、
小学校、中学校、高校、大学、塾の先生時代、どこをとっても人間らしい人間だったように思う。
今、何となく社会正義のようなものに目覚めてきたのは、子どもたちを得て、自分が今、いわゆる大人であること、親であることを認識し、自分が社会のために何かをしなければならない立場にあるということを痛感したからに過ぎないのである。
してみれば、自分も子どもができちゃったから結婚しなくっちゃね。といっているヤング世代と何も変わらないわけで、いまさら偉そうなことを言う立場でもないわけだ。
ただ、私は将来自分が死んだ後、子どもたちが生きる世界がどのようなものなのだろうか、という点でとても不安なのである。
――お金がなくて困ることがないだろうか?
――男の兄弟がいないことでつらい目に遭うことはないだろうか?
――ヘチャムクレの顔でいじめられたりしないだろうか?
――しあわせな人生を歩んでいけるだろうか?
私にはわからない。分かるはずもない。
寝る時間も削って仕事をしたり、勉強をしたり、こんな生活をしていればきっと長生きはできないだろう。それでも私が努力をするのは、二つの理由に集約できようか。
①子どもたちの住みよい社会にするために自分ができることをする
②子どもたちの中に私の生き様をしっかりと刻み付けておきたい。
①は、他力本願である。要するに、よい社会が作れれば私の子どもたちも幸せに暮らせるのではないかという安易な発想。
②は、親のエゴである。でも、実際に私は父と母の背中を追いかけて今まで生きてきた。あの父と母がいなければ、決して今の私にはなっていない。自由で柔軟な発想の父。聡明で優しい母。二人は私の理想の夫婦である。学歴も家柄も、何ひとつ他人に誇るものはないが、それでも私を東大の大学院にまで行かせてくれた。私は父と母をとても大切に思うのだ。(T_T)
脱線してきたな。
要するに、遅ればせながら大人デビュー。子どもができて初めて自分が親だと気づいた始末。
結局、親にできることって、どんなことだろうか。
自分がまず、いい大人になることじゃないだろうか。子どものとき夢見てた素敵な大人。それに自分がならなくちゃいけないんじゃないだろうか。自分が周りの人々や子どもたちを大切にしないでおいて、自分の子どもだけを幸せにできるだろうか。
自分の役割をきちんと演じることじゃないだろうか。大人としての役割。父親としての役割。社会人としての役割。その姿をきちんと子どもたちに見せておく。それを反面教師と見るか、理想とみるかは子どもたちに委ねるしかない。
だから、私は①社会のために何かする。②子どもたちに自分の姿を刻み込む努力をする。
私に対する批判はたくさんあるだろう。
悪いところは直す。しかし、「聖人君子」だとか、「面白みがない」などという批判は、批判にならない。
なぜなら、自分の役割をきちんと演じるのが私の仕事だから。
分をわきまえる。私はわたし。万人に好かれようと思っているわけじゃない。
地獄のような確定申告の時期を過ぎて、ようやく平穏が戻ってくる。
毎日同じ景色のように見えても、実は決して同じ一日は来ないものだ。
昨日までの私を踏まえつつ、今日はあらたな水平線を目指して船を漕ぎ出す。
思いがけず、コメントに温かい励ましをいただき、心より感謝を申し上げる。
他人とのふれあいって、何と心地のよいものだろうか。
課の同僚たちに労をねぎらってもらって、昨日はすっかり幸せになった。
温かいコメントをいただいて、今日もうれしい限りである。
申告明けを見計らったように、裁判官をしている友人からメールが来る。
ようやく訟務検事から判事に戻るとのこと。試験頑張れと…。あちゃー。
たいへん元気をもらったのが岐阜で経済学の助教授をしている友人が書いた新書。
忙しくて、まだ最初の50ページしか目を通していないが、まえがきを読んだだけでうれしくて涙が出そうになった。あいつも頑張っている。
ちょっとだけ、帯の言葉を引用してみよう。
『「国がきちんとやるべきだ」。
あなたも、何となくそう思っていませんか。
本書ではこの考え方を「クニガキチント」の誤りと呼びます。
年金も医療も教育も、官僚まかせにしていると貴重な資源が浪費され、
私たちの経済と精神の自由が束縛されてしまうのです。』
本書のタイトルは、「リバタリアン宣言」。(朝日新書)
?オバタリアン と間違えないように。それは笑えます。
?バタリアン も違います。それは映画です。
リバタリアンとは、彼の言葉を借りれば、「自由至上主義者」のことだ。
私はおそらく、リバタリアンとは程遠いかもしれない。高校時代から彼の思想が自分の考えとは全く異なることには気づいていた。しかし、彼の発想は魅力的だ。高校時代、私は毎日、まるで彼女のことを話すように、父に彼の思想の面白さについて熱く語ったものだ。
私はもっと保守的なのだろう。自由への限りない憧れと、「公」というものへの漠然とした疑念を抱きつつ、やはり何とはなしに「クニガキチント」の発想から抜け切れていない。
だが、仕事の中で確実に育まれてきたのは、「公」とは、「私」の集積以外に何があるだろう?という思いだ。
国家権力が私の自由を奪うことができるとしたら、それは、私が他人を害するときだけでなければならない。逆に言えば、他人を害することのない限り、私の自由は最大限に保障されなければならず、誰も私を妨害することなどはできない。(J.S.ミル)
国家権力だから、偉いから、強いから、大きいから、ただそれだけの理由で、私が国に道を譲る理由はない。私が道を譲るのは、そうしないと誰かが――たとえばどこかのおじいちゃんが――困るからである。
抽象的で難しいかもしれないが、法律が強制的な効力を持つのは、それによって守られるべき正当な利益があるからなのである。
彼は、東大に行き、私は早稲田に進んだ。その後、法学部を卒業しながら、彼は渡米し、経済学の道を歩んだ。私は夢だった小説家にも、弁護士にもなれず、のほほんと税理士になった。彼に見せるには恥ずかしいくらいの私の人生だが、それなりの経験を経て、今の私は限りなく彼に共感する。
友よ。
いつの間にか、私は権力を憎む人間になった。
権力は人を堕落させる。一人ひとりは美しい魂を持っているにもかかわらず、
権力を行使するときは、かくもたやすく人を変える。
角度が違うけれど、
私は君の思想に共感している。
私の家族も、私の同僚たちも、おそらくは私が何と戦っているのかを知らない。
私は表面上は、クライアントのために税務署と戦っている。
しかし、真に私が倒したくてやまないと思っているのは、そんなものではない。
友人の著書はたいへん勇気をくれた。
かぜが治りそうだ。気合が入ってきたぞ。
この忙しいのに、どうしても、という法人の税務調査がある。
やれ電子申告だ、やれ税務支援だ、納税者に滞納指導をしろ、などと、
国税はしきりに税理士を利用しようとする。
ここまで忙しいと、正直言って、税務署に構っていられない。
あれもこれも一緒にできるか!俺は聖徳太子じゃない!
体は一つしかないんだぞ!いい加減にしろ!
よほど暇なんじゃないだろうか、とかんぐりたくなってくる。
まあ、愚痴はこの辺にして本題に入ろう。
半分未確定の支払、とでも言うべきか。
支払手段の中には、支払いの記帳と相手方への着金にタイムラグがあるものが増えてきた。
古いものでは小切手。
当座から支払ったことになってはいるが、実は相手に渡すのを忘れていたりすることがある。
渡しても、相手が金庫に入れっ放しにしていると、いつまでも当座から落ちない。
これも古いが、集金。
領収書をきちんともらっておかないと、横領されることすらある。そんなこと!と思うなかれ。新聞にすら載らない刑事事件が五万とあるのだ。毎日、明るく楽しく暮らそうと思うなら、けじめとして領収書はきちんともらいなさい。そうでないと、疑心暗鬼になって、胃をこわす破目になる。
最近では、カード決済。
控を取り、引き落としときちんとチェックしないといけない。実は、カード所有者は決済を取り消すことが可能だ。控を領収書代わりに、なんて税務署は信じてはくれない。
振り込みも問題がある。
払ったつもりが、実は他人の口座に振り込まれたという裁判例がいくつもある。銀行も痛い思いをしたのだろう。最近は非常に形式的で厳しい。
ダラダラ書いてしまったが、小切手は特に注意が必要だ。
決算で賞与手当を計上し、それを自己宛小切手で引き出してくる。
現金で社員に配り、ああよかった、一件落着。
といきたいところだが、税務署が見ると、職業柄というのか、いちいち疑いのまなざし。
「本当に配っているの?本当は誰かがポケットに入れたんじゃないの?」
いきなり疑われるわけじゃない。
疑問に思わせてしまうのは、①普段しないことをした、②支給対象者が一部だけ、③金額にバラツキがあり恣意性を感じさせた、④振り込んだ人と現金支給の人がいる、⑤振込の日がおろしてきた日付けより遅れている、⑥文書が完全にそろっていなかった、などの不自然な動きがあったせいだ。
これでは横領、もしくは脱税を疑われてもやむをえない。
調査官の目が爛々と輝き、獲物に飛びかかるハゲタカと化す。
経理と人事を呼びつけ、真実を話してくださいと来たもんだ。
結果的には、別に不正があるわけではなく、何も出てこなかったのだが、三つのことを思った。
①李下に冠を正さずという。ルールやプロセスを大切にしよう。
②税務署は不正を喜ぶ。何も出てこないとがっかりするのだ。
③権力が正義を振りかざすとき、すべてを踏みにじる。
これを読む人は、きっと意味がわからないに違いない。
それでよい。
ある意味、わからないように書いているのだから。
私は、今日、またしてもおそろしい魔物を見てしまったのである。
こんな日はとことん落ち込むしかない。
くらーい。