電子申告
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いやはや。
朝から電子申告にかかりきりであった。
今月は、83%の実施率。
先月の36%に比べると、格段の実施率だ。
今月なぜにこれだけ大変だったかといえば、
実は、電子申告のプログラムを、J社から、N社へと変更しようとしているからである。
VISTAのパソコンでカードリーダライタの認識がうまくいかず、
システム担当の方の手をわずらわせた。
9時から取り掛かり、大掃除を横目にしながら、結局4時までかかってしまった。
うまくいってしまうと、N社はたいへんよい。
なんたって、オフコンを使用しなくとも、卓上のパソコンで全部できるし、3階ある当社ではフロアを超えてデータを共有できる。
値段の割には使い勝手も悪くない。
しかも、いちいちプログラムをアップデートしなくても、ASPなので常にプログラムは最新だ。
調子に乗って、同族株の評価などさっきまでいじっていた。
なんだかんだ言いながら、件数も伸びてきた。
電子申告では後れをとった高岡支部であるが、「速報E-Tax」という新聞まで発行して、なんとか頑張っているのである。
1月は、法定調書で件数を稼ぐぞ!
ふたたび決意を新たにしている。
社員の方は、これを読むと青くなるかしらん。
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世界の中心で租税法を叫ぶ?
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時間を見つけて、1本の論文を読んで驚愕した。
なんと、租税法の研究こそが法律の中心であるべきだ、という趣旨の論文だったのである。
ハーバード大学の現役の教授、J・マーク・ラムザイヤーが、金子先生の編集に係る「租税法の基本問題」(2007年11月25日初版、有斐閣)に寄せたもので、もちろん日本語である。
以前、前支部長であった田中先生が
「税理士っていらない資格なのかなー」などとボヤいておられたが、
先生がこれを聞いたら、きっとお喜びに違いない。
彼は、経済学の教授だと思うが、中里先生がハーバードによく行かれ、共同研究などもなさっているので、きっと租税法もいろいろご存知なのだろうと拝察する。
簡単に紹介すると、こんなことである。
世の中には、弱い者を保護する法律がたくさんある。労働基準法とか、借地借家法とか、消費者契約法とか、製造物責任法など。こんなものがあると、社会がかえって非効率的になるので、このような制度を作るのは全部やめて、代わりに国家は財産の再分配だけを行う。富める者からお金を取って、貧しい者に分配する。これが広い意味の所得税である。
租税以外の法律は、効率だけを重視し、弱者保護は行わず、弱者保護は徹底的に租税法で行う。
その方がはるかに政策としてうまくいくというのだ。
これが、キャプロー=シャベルの定理と呼ばれている(ルイス・キャプローとスティーブン・シャベルの1994年の共著論文)。
ラムザイヤー教授は、これに賛意を示したうえで、租税と他の法律があいまって国家を発展させるのだから、租税を知らずして他の法律を研究するのは基本的な誤りであるというのである。租税で行われている弱者保護を視野に入れずに他の法律分野を考えれば、方向性を誤ってしまう。
したがって、租税法を研究することは、他の法分野にとって非常に有意義なことであり、法学部やロースクールのカリキュラムは間違っている。
租税法こそが法学の中心的な地位を持つべきなのだ。
租税の研究が他の分野の研究にとっていかに有用であるかを知るべきだ。
とまあ、こんな感じだ。
簡単にといいながら、長い説明だった。
ラムザイヤー教授の所説はともかく、キャプロー=シャベルの定理はたいへんに興味深いものである。
彼らは、これを
T+C(Ri) = T’+C(Re) という
簡単な算式で表現する。
租税とは何か。
アメリカは、どちらかというと国家の財政需要を満たす基本的機能よりも所得の再分配を目指す方が強いようだ。さすがはリベラリズムの大国。
さらに面白いのは、数式を、所得を横軸、コストを縦軸にグラフにしてみると、負の所得税の概念が観念できるのだ。マイナスの所得税とは、生活保護そのものである。
福祉と一体化した租税制度というのは、新しい潮流の一つではないか。
私の高校時代からの親友が
「国家はいらない」
という、ペーパーバックを最近出版したのだが(洋泉社2007年12月5日)、結構売れていると聞く。
印税が入ったらきっとおいしいものを御馳走してくれると思うのだが、
私の考え方も、次第にこんなところに集約していきそうだ。
眠い目をこすりながら、時間を見つけて論文を読む。
実務家にも勉強が大切であるというのが私の持論であるが、
楽しい論文に出合った日は幸福である。
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忙殺…仕事人
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年末になると、なんでこんなに忙しいのだろう?
いぶかしむほどに忙しさがつのる。
今朝の占いに
お茶を飲む暇もないほどあなたは忙しい、
などと記載されており、一人笑った。
隣りは何をする人ぞ?
高浜虚子ではないが、こんな時間まで私が何をしているかというと、
会計帳簿を付けていた。
実は、会計ソフトを弥生会計に変えているので、いろいろと面倒くさいのである。
朝から、お客様のでっかい取引の立会をしなくちゃいけないというので
売買契約書やら必要書類やらのチェックで忙しく、
その間にも、経営会議に参加したり、相続税の申告の相談やら、決算の話やら、さまざまな事件が頭の中を通り過ぎていく。
挙句の果てに、取引が事情でパーになったとか。
こちらの頭までパーになりそうである。
いまさらどうでもよいのだが、不動産屋さん作成の土地の契約書はちょっとびっくりした。
こんなページを読んでおられることもなかろうから、書きたいように書かせていただくが、
業界のフォーマットを使用しておられるのはまあ良いとして、
契約書の作り方がまったくなっておらない。
条文のタイトルだけを抹消して、それで条文の内容までが抹消されたものとなるという。
契約は、相手方が通常の能力を持つ一般人であるとして、社会通念上どのように文面を読むか、という基準である程度客観的に内容を検討すべきである。
もしも、後日紛争が生じた場合、私が弁護士ならば、当然のように契約の文言が生きていると考えて当たり前だ、と主張するだろう。
タイトルだけ抹消されたと考える余地も十分あるからである。
最高裁の有名な判例に、
手形金額の欄に「壱百円」と記載された手形が、アラビア数字で横に¥1,000,000 と記載されているにもかかわらず、100円の手形であると判断された事件がある(最判昭61.7.10)。
民法の瑕疵担保責任は、契約によりこれを負わないものとすることもできるから、きちんと契約書にうたっておけば、570条の責任を免除することもできるのである。
このような大切なことを、ほんの少しの努力を惜しんだために台無しにしたとしたら、私はクライアントに申し訳が立たない。
リスクとコストとを常に比較すること。
確率が低くても、大惨事になることが予想されるような事柄は、損害の期待値が大きいのであり、それなりのコストをかけて然るべきである。
プロ意識のない仕事をする人間は大嫌いである。
中途半端な仕事をする方と、チームを組む気は毛頭ない。
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気をつけよう―税法上のみなし役員
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役員の給与は、定期同額じゃないとダメよ、とか、
特殊支配同族会社の業務主宰役員の給与は一部損金不算入だ、とか、
そこここに、「役員」という言葉が出てくる。
この「役員」というのは、必ずしも登記上の役員に限らないことに注意しよう。
税法では、実質に従ってものごとを見ましょうというのが基本である。
会社によっては、登記上取締役になっていない人が実際に権力を握っていたりすることもないことではない。
このようなイレギュラーなケースでも対処できるように、
税法には「みなし」役員という制度がもうけられている。
まず、①登記上の役員は、当然に税法でも役員だ(法人税法2条15号)。
しかし、それ以外でも、
②使用人でないのに経営に従事している人(施行令7条1号)は、役員とみなされる。
たとえば、相談役とか、会長などと呼ばれている人は、可能性がある。
③使用人であっても、一定割合以上株式を保有している人で、経営に従事している人(施行令7条2号)は、役員とみなされる。
みなし役員のポイントは、「経営に従事しているかどうか」だ。
この判定はたいへん難しいものであるが、いったん問題になったケースでは否定するのが至難の業である。
みなし役員になってしまうと、登記上の役員と結論が変わらなくなってしまうのでひどい結果になることもある。
ちなみに、社長が病気療養中に、息子が臨時代行として采配を行っていたケースではみなし役員とするのは適当でないとされた裁決例がある(昭和48年12月8日)。
PS ぼやき
毎日書くのもなかなかつらいものだ。
ブログを毎日書いている人は偉いと思う。
今日は娘のウクレレを作り上げて疲れきった。
「まめまめまめまめまめまーめ。」
スナフキンのようなミノ助は喜んでいたからよしとしよう。
眠くなってきたので、この辺で。
さーよーおーなーらー
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うれしいメール届く
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大学院では普通の凡才だった私だが、
同級生たちは立派である。
先ほど、同級生だった女性から、司法修習を終えて弁護士に登録する旨のメールが届いていた。
喜ばしい限りである。
でも、自分のことを思うと複雑だ。
同級生への年賀状も出したりしながら、
まだ、心の中にくすぶる悔しい思いを認識している。
すでに来年分の願書は締め切られているが、
落第生の烙印は、私の心の中からはいまだに消え去ってはいないようである。
ヘンな話で恐縮だが、私はそんなに頭のよい方ではないと思う。
よく、人に話すときは、コンピュータにたとえて話をする。
本当に頭のよい人というのは、PCでいえば、CPU(中央演算処理装置)が優れている人である。
頭脳の回転が速く、同時にいくつもの演算処理ができる。
この手の人は、実際にはあまり巡り会えない。
私がいたのは文系の大学院であるからなのかも知れない。むしろ、理系のほうに走る方が多いのかもしれないと思う。もちろん、クラスメイト達の中には、話をしていて、「こいつはキレる」とひそかに感動する友人が何人もいたことは事実である。
よくある頭のよい人といわれるのは、情報処理量に優れた人たち、PCでいうと、メモリーがテラバイトクラスの人たちである。この人たちは、同時に多くの情報をまな板の上に載せておくことができ、情報の流通を制御しながら、的確・着実に演算を行う。
法律を読解するリテラルな能力は、このようなメモリーがたいへん重要である。簡単に説明すると、次のようなこと。原則はこうだ、しかし、例外が三つある。その例外ルールが適用される要件は、①②③だ、などと、複雑に分岐したルールが法律分野ではたくさんあり、きちんと体系を理解していないと迷路の中でさまようはめになるのである。
最も凡才なのが、ストレージが優れた人たち。要するに、ハードディスクが広大な領域をもっているタイプの人たちである。簡単な言葉で言うと、記憶力が優れている、というものである。
悲しいかな、私は第三のストレージタイプである。
記憶力は素晴らしいと自分でも思う。しかし、少なくとも42歳の今は、メモリーもCPUも普通の人でしかない。
年をとったのかもしれない。
儒教思想ではないが、人生にはステージというものがあるという。
父母に何度となく説教をされながら、いろいろなチャレンジをしてきたが、
2代目を襲名する今、もはや冒険をする身軽さはない。
じっくりと腰を据えて、会社の地固めに専念することにしよう。
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規範のいろいろ
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昨日、「規範」に照らし合わせて仕事を行えば、「正しい」と評価されるというお話をしたところである。
その中で、「権威」Authorityについて触れたが、
誤解のないように補足をしておきたい。
昨日の設例が相続税評価額の算定であったため、権威が法律や学術的な理論に収束した。
しかし、権威が常に国家権力にあるというわけではない。これには注意を要する。
私たちの仕事がクライアントに依頼されるものである以上、クライアントこそが「権威」である。
たとえば、お客様のある支出をどの勘定科目に分類するか、原価なのか、販売費なのか、ということは、別に国家権力が定めるような事柄ではない。
租税法が定めるのは、必要経費なのか(個人)、損金なのか(法人)、という点だけであって、それ以外のことは「適当な勘定科目に分類する」などと記載されているにすぎない。国家権力にとって本質的に irrelevant な状態であるという。
この場合、原価計算を行う必要があるのか(原価に分類)、それとも商的工業簿記で構わないのか(販売費に分類)、という点について、その帳簿の作成者が自分の意思で自由に設定するべき事柄である。
「権威」は、勘定科目の設定については、事業主や社長の意思にこそ存在しているのである。
判断に迷った場合、そこに存在する「規範」の存在形式について考えること。
国家権力による強制的な「規範」が存在しているのか。
別の規範からする論理的な帰結なのか。
あるいは、決定する権限がある人に属しているのなら、その人の意思は何を志向しているのか。
誰もが決定権限を放棄していて初めて、好き勝手にすればよい。
消費税法のような形式的な法律には、
原則課税や簡易課税のような、あとでリスクのある選択が納税者に委ねられていることがある。
このような分岐点に立つとき、私たちは、選択のメリットとデメリットをお客様にすべて開示して、
お客様に判断をゆだねる。
いい方を選択してくれればいいよ、などとおっしゃるお客様も、
面倒だなあ、と言いながらも、私たちの説明を聞くと、納得して判断をして下さる。
お客様の究極の利益を追求する以上、
お客様に面倒くさいといわれることこそが、私たちの仕事である。
別の税理士から移ってくるお客様たちの多くは、
たいていはコミュニケーションが成立していないことが多い。
お客様からささやかな報酬をいただきながら、業を営む以上、
お客様と濃密なコミュニケーションをとることが基本であることをしっかりと脳裏に刻んでおくことである。
お客様の究極の利益を目指す。
私が「あなたをまもる」というサブタイトルをつけるのは、
それなりの覚悟があってのことだ。
これがどれだけ重い言葉であるかは、お客様たちにはぜひとも理解していただきたいところである。
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「正しい」とは?
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お酒ばっかり飲んでいて、ブログをさぼっている。
暇なわけではない。
今日も、お客様の決算の報告(株主総会に相当する)と、新規のお客様との契約、相続税の申告書に添付する税理士の意見書を作成していた。
この意見書は、たいへん興味深い事例に関するもので、いつかこのブログにもご紹介することもあるかもしれない。私は、特殊な事案に関しては、徹底的に文献等を調査し、判例を調べ、六法を引用し、論文形式の「税理士所見」という文書を添付することにしている。これは、うちの独自のサービスであって、ちょっと変わったものであろう。
さて、今日は税制改正を離れて、
「正しい」とはどのような意味を有するのかを少し考察してみよう。
私たちは、つねづね、「正しい」 仕事をしたい!
と、熱望しているところである。
ところが、「正しい」というのは、実際の仕事に当たってどのようなことを指すのかを迷うことがないではない。
まず、最も基本的なことは、「正しい」というからには、何かと照らし合わせることによって、その何かに一致しているということが必要である。
これを、一般に「規範」と呼ぶ。
難しい言葉でいうなら、「規範」に適合した状態を「正しい」と表現するのである。
私の仕事で具体的に説明してみよう。
ある土地の時価が3000万円である、と言われても、
それだけの条件では、果たしてそれが正しいかどうかはわからない。
しかし、この「時価」が、仮に税務上の「相続税評価額」のことを意味しているとするなら、
話は別だ。
相続税評価額がいくらか、というのは、たとえば「財産評価基本通達」という「規範」が存在しており、
それと照らし合わせることによって、「正しい」評価である、とあてはめることができるからだ。
私たちの仕事は、「規範」があるかどうかを調べ、その「規範」との適合性を追究することにより
自らの仕事や他人の仕事を「正しい」と判断できるのだ。
もちろん、難しいのは、「規範」は、財産評価基本通達以外にもさまざまな形式で存在しており、単純にマニュアルが存在するように思っていると大きな怪我をすることになるところだ。
最近は、モノの本が多く出回っており、銀行さんや不動産屋さんが通達を武器にして営業をかけることもあるが、税理士法の問題は置いておくとしても、あまり通達を金科玉条のように使用するのも考えものだと思う。租税の世界は「実質」が重要であり、形式にとらわれすぎてはならない。
プロを名乗るなら、「規範」が他にないか、特別な取り扱いがあるのではないか、本当にその「規範」がこのケースに当てはまるのか、などに細心の注意を払いながら、注意深く仕事をすることが求められるのである。
この「規範」というのは、どのようなものを指すのか、というと、大切なのは「権威」と「一般的抽象的」なものであるということに留意しよう。
「規範」には、「権威」がなければならない。
よくある間違いだが、税務署に電話して質問したら、ある処理をしなさい、と言われた、と言ってそれを鵜呑みにして仕事をすると、よく調べてみたら誤った処理方法だった、という事件がときどきある。これは、税務署が間違った処理を教えたということばかりでもなく、質問の仕方が悪かったり、聞いた本人が理解が足りなかったり、いろいろな原因が介在する。質問する場合には、きちんと根拠を確認することが必要である。そこまでしておけば、法律や理論が「権威」として背景に存在することが明らかになり、回答が「規範」に合致したものであると確認できる。
私がそう思った、以前に他のお客さんで似た処理をした、などという理由づけは、まったく根拠にならない。他でそうだったと言われても、だから何?と言われたらそれまでだ。
それで仕事をしているならば、それは自分が一番偉いという傲慢以外の何物でもない。それは、税理士であってすら許されない傲慢である。資格があっても、偉いわけではなく、必ず「規範」に従って仕事にいそしむことが大切である。
私がよくつかう、金子先生の租税法(現在12版)や最高裁の判例も、素人には注意が必要だ。
金子先生のご著書は、税務に携わる人が必ず持っている本で、大変素晴らしい本だが、時には実務に反する記載もある。金子先生なりのお考えがあって記載されているのだが、よく読めば、きちんと判例は反対であるという記載がされているのだから、読み方を間違えてはいけない。また、判例は、事例判決といって、時には理論的な裏付けの薄い判決がなされることもあるし、また類似のケースとは言え、完全に類推できるかどうかはやはり注意する必要があるのだ。
「規範」は、「一般的抽象的」なものでなければならない。
一般的とは、特定の人に関するものであってはならない、ということだ。当たり前だが、ある人に適用される規範は、他の人に当然に適用されるものではない。
抽象的とは、特定の事柄だけを決めたものであってはならないということだ。これも当然だが、個別通達で、ある人に対して指導がなされたものを、他の人に当然に適用されるなどと思ってはならない。
ちょっと話が難しいかもしれないが、「正しい」処理をしようと思うのならば、常にこのような「規範」の探求に意を配り、適合性に配慮することが大切なのである。
税務署の調査官の中には、「おれが法律だ!」などとのたまう人もいた。
日本国憲法が、「人の支配」ではなく、「法の支配」という原理を採用していることはよく知られたことである。憲法は、公務員を信用などしていない。公務員とは、法律に従って忠実に仕事をする人であり、その法律を定めるのは公務員から切り離されたところにある国会、究極的には国民である。
公務員が法律になると、何でもかんでもやりたい放題、税金も取りたい放題、退職金も取りたい放題、予算も使いたい放題、なんていう恐ろしいことになってしまう。
人間、あまり偉くなってはいけない。
自分が一つの歯車でしかないことを噛みしめつつ、
自らの誤謬を畏れながら、慎んで一生懸命に仕事をする。
こんな仕事には、他人もケチをつけるのが難しい。
パラドキシカルな表現ではあるが、これこそが、サムライが「偉い」理由なのである。
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税制改正 減価償却制度
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前年の約束通り、法定耐用年数の見直しが行われた。
また、機械装置が390区分も存在したのに対し、55区分に大括りにされた。
注意点が二つある。
①平成20年4月1日以後開始事業年度から。
②既存のものにも適用がある。これは面倒かもしれないな。
30万円未満の中小企業者の少額減価償却資産の即時償却の特例は、2年延長となる。
耐用年数の短縮の特例について、軽微な変更等の場合などに、承認申請しなくても短縮できる措置を設ける。
こんなところか。
今日は、ここから下が雑談だ。
さてさて、二人目の中途採用者が内定した。
本人が承諾してくれるかどうかはわからないが、
私の力になってくれるとうれしい。
今度は、第1課への配属となる予定だ。
たびたび触れているところだが、人材が少し育ってきたかな、と思えるようになってきた。
私が気がつかなかったような点に気付いてくれたり、
クライアントのことを一生懸命考えてくれていたり、
新入社員君に一生懸命指導をしてくれていたり、
わが社のためになることを考えてくれていたり。
毎日、いろいろなことがあるが、私は自分なりに一生懸命努力している。
良いことは良いと評価する。
悪いときは、はっきりとだめだという。
同じことを2度3度とやると、さすがに激怒する。
どんなときにほめられ、どんなときに怒られるのか、それをよく考えてほしい。
私の基準は簡単である。
わが社の成長のために役に立つか立たないか。
それだけだ。
役に立つこと。
それは、現在または将来においてわが社に有形無形の利益をもたらすことである。
もっとも高い評価をするのは、私の気付かない重要なことに気付き、私を救ってくれる時である。
同時に複数の大きな仕事をこなしているので、ときにうっかりすることもある。そんなとき、担当者は、自らの頭脳で、しっかりと私の思考をフォローし、真意を感じ取ってくれることがあるのだ。
私のように理屈っぽい人間に対して反論をするのは大変だろうが、これがきちんとできるというのは担当者の実力そのものである。体系的で、論理的な思考力が付いている証拠である。また、同時に、あえて私にかみついてまでよい仕事をしようとする職業的なプロ意識と、会社への誠実さの表れでもあるのだ。
役に立たないことというのは、有害なもの。
有害なものとは、わが社に損害を与えるもの。
例としては、ミスをすることや、私語をすることなど、職務怠慢な場合。
軽く考えるなかれ。
ミスには必ず原因がある。
会社への忠誠心がないから、仕事がいい加減なことが多い。ほかのことばかり考えて、仕事に集中していない。他人に仕事をやらせて、自分はチェックをしない。
うちの仕事は下手をすると、クライアントに数百万円の損害を出すことがある。それをわかっていながら、もしもこのようなミスをし続けるならば、このような人は会社にとって有害な人物である。社員は謝ればすむが、会社は損害を賠償しなければならないのだ。お客様の損害は、金銭だけですむことはない。お互いを傷つけあい、回復不能となることもある。
態度を改めないのであれば、早目にやめてもらった方が身のためだ。
真面目なほかの社員がかわいそうだからだ。
また、私語は、度を過ぎると会社のお金を横領しているのと同じである。忙しい忙しいと言っている人に限って無駄な時間を使っているものだ。
明るく、自信に充ち溢れ、お客様たちに元気を与える。
そんな税理士事務所でありたいと、つねづね思ってきた。
明るさは、誠実な人間関係の証である。
自信は、論理的思考力と体系的知識のなせる業である。
元気は、他人を思いやる気持ちが作り出す。
今、社員たちの成長がまぶしく思えることがある。
新しい世代が頼もしい。
私も頑張るよ。
道なき道を切りひらくのは私の仕事だ。
正当な努力は必ずや実りの秋を迎えるはずだ。
信念をもって一歩一歩、歩むことにする。
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