昨日はすっかりお客様の民宿でご馳走になってしまった。
大きな仕事をいただくわ、ご馳走になるわ、
そこへ別のクライアントまで合流して、たいへん緊張する宴会だった。
しかし、ここの会話は少々おもしろい。
会社の経営者の方は、少し考え方が違う。勉強にもなる反面、興味深く聞き入った。
「のう、越後屋。そちも悪じゃのう。」
「ほっほっほ。お代官様こそ。私は到底かないませぬ。」
「わっはっは」
「おっほっほ」
決して悪だくみをしているわけではないのだが、
生き馬の目を抜く商売の中を生き抜く知恵は、それ相応に勉強になることが多い。
商売というものは奥が深い。
あきんどは江戸時代にも「士農工商」と言われ、
さげすまれてきた歴史があるが、
それだからこそ、隙間を縫って、知恵を絞って、しっかりと資産を築き上げたのである。
私も今では偉そうにコンサルティングなどとほざいているが、
実際にはお客様たちに教えられてきたことは数多い。
この社長は、製造業として一代で財を成した方であるが、
今まで何度となく、メーカーとしての哲学や商売の知恵を勉強させていただいた。
建設業には建設業の知恵がある。
飲食店には飲食店の知恵がある。
卸売りには卸売りの、スーパーにはスーパーの、
運送には運送、病院、歯医者、サービス業、エトセトラエトセトラ。
私はある意味、造られた偶像である。
そんなきれいなものではないだろうから、張子の虎?それとも、いっぱい書き込まれた色紙?
汚れて、どす黒い色になってきたような気もしないではないが、
とにかく、書き込まれた量は相当のものである。
勉強した期間が長いので、そもそも書き込みが多いところへ持ってきて、
お客様たちがたくさん書き込みをしてくださっている。
うちの社員たちも相当書き込みをしてくれる。
ありがたいことだ。
私をご愛顧いただけるかたがたがどんどん増えてしあわせだ。
もっと能力をつけて、もっとお役に立ちたいと思っている。
忙しいけれど、この身の続く限り、がんばろう。
私のできる限りのことはしよう。
最後はへべれけになってしまったのだが、
しあわせな飲み会であった。
たゆとうもの―
それは時。
うつろい、めぐりゆき、果てしなく流れ続ける。
PM4:00訪問したクライアントの会議中、
私の厳しい言葉に奥様の目から涙が零れた。
周りの老舗が次々とつぶれていく現実をお話したときだった。
地元では名門の寿司屋である。
頑固一徹のにぎり職人と、その奥様。
仕事に何一つ手抜きはない。
食材は最高のものを使い、徹底的に味にこだわりつつ、
値段は、庶民にも手が届く手ごろな価格にとどめてきた。
都会の寿司屋では、まず考えられない明朗会計。
「一口食べれば、必ずわかる。」
最高の食材にこだわりながら、低価格を維持するのは並大抵の努力ではない。
そんなことを、きっとお客はわかってくれる。
そんな思いで努力を続けてこられたに違いない。
しかし、実際には、味にこだわらないお客が増えている。
ファミレスやファーストフードに比べられたら、まるで立場がない。
店をたたむ老舗の方々の無念を思い、自らに置き換えて直感した―
それは、思いがあふれて零れた涙であった。
店にはコンセプトが必要である。それはどの仕事であっても同じことだ。
どんな人に来てほしいのか。客は、この店で、どんな喜びを感じてくれるのか。
この寿司屋は、地元の庶民に愛されるちょっと贅沢な食卓だったのだ。
ところが、「庶民」は、昔のように似たような人ばかりではなくなっている。
寿司屋といえば回転寿司しか知らないお客さん。
カウンターに座っても、職人としゃべらず、セットメニューを頼むお客さん。
サーモンはないのか、と聞くお客さん。
カウンターで、職人と談笑しながら、旬の食材をいくつもつまみ、最後に寿司でしめる小粋なお客さんは年々少なくなっていく。
今、寿司屋は日本独自の文化を離脱し、和風定食屋のカテゴリーに属しはじめている。
定食屋にきたつもりのお客は、寿司屋の値段を「高い」という。
それだけではなく、「庶民」に合わせたがゆえに変化してきた店は、
寿司屋に通う、通にとっては、格が低く映ってしまい、「安い」店、という評価をされる。
「高い」ともいわれ、「安い」とも言われてしまう店。
要するに、顧客層がばらついてきたことにまじめに対応してきた結果、
かえって店のコンセプトが中途半端になってしまっているというのが重大な問題である。
売り上げをもう少し、セグメント別に詳細に分析する必要があるが、
子供のときからこの店に通っている私としては、今こそ、顧客を選ぶべきだと思う。
あれだけ市場価格より安い価格になっているにもかかわらず、それでも「高い」というお客様は、はっきり言ってターゲットとなるお客ではない。
そんな顧客も大切にしたいというのなら、フロアを完全に分離して、居酒屋をやればよい。
もともと、寿司だけではなく、盛り付けも味付けも最高の一品料理もまた、得意な店である。
寿司屋に来る人は寿司しか食べないというのなら、
ノウハウを生かした料理を居酒屋として提供することもできる。
「安い」というお客様こそ、本当のお客様ではないか?
売り上げの内容を少し分析してみて、おもしろい事業計画が作れないかどうか、検討してみようと思った。
また仕事が増えそうである。
私は友達が多い方ではない。
ここしばらく、(10年以上!)、お客様たちに尽くす毎日であるから、仕方がないのだと半ば諦めている。
「税理士は、奥さんである」と、
かの有名人のT先生がのたまったのは、まことに名言であった。
私は、「奥さん」として、多くの会社と「婚姻」関係を結び、「主人」としての旦那様に尽くす毎日をおくっているということになろうか。
世話のかかる主人をおいて、奥さんは友達と遊び呆けることができないでいるってか。
重婚は民事上、違法であるだけではなく、刑法上の犯罪ですらあるわけだが、まあ、冗談はおこう。
我ながら、比較的おもしろい人生をおくっているほうだと思うが、友達もバリエーションに富んでいる。
早稲田大学の剣道部の仲間たちはとくに個性的だ。
今は「人間科学部スポーツ学科」という素敵(?)な名前になったが、昔は「教育学部体育専修学科」という名前だった。
一般の学生たちには「たいせん」とおそれられ、噂によれば、さまよって迷い込んだ学生たちが、「たいせん」にリンチを受けて血の雨が降ったとかいう恐ろしげな話がまことしやかにささやかれる(^^)。
よくある学園こわーいお話の一コマだが、実際に体育館のお風呂が大学のタダのお風呂だと勘違いして勝手に入っている学生がいたりするような接近遭遇があることも事実だ。
「てめー、いったいどこのどいつだ?ただ風呂浴びようたー、ふてー野郎だ。」
などと、とっ捕まると収拾がつかなくなる。
素っ裸になると、「たいせん」の連中は見た目が実に怖い。
何せ、筋肉隆々で、マルタンボウのような硬い腕や足をしている。肩の僧帽筋が盛り上がり、首がない。
海兵隊のような短髪で、たまに眉毛が薄かったり。
足の太ももなど、女性の腰の太さくらいあったりする。そうそう。まるでケンシロウである(北斗の拳)。
名前を聞くと、ケンゾウとか、テツヤとか、中には時代がかった兵衛(ヒョウエ)なんて人もいる。
わからないかな?わからないだろうなあ。
しかし、鼻歌でも歌いながら、シャンプーしていたら、どやどやと怖い連中に取り囲まれる風景をちょっと想像してみなさい。実に笑えるではないか。
リンチなどはもちろん事実無根である。「たいせん」の人々は、心やさしき常識人である。
少ない部費でお風呂が運営されているのだから、ここには無断で入っちゃいけないよ、とキャプテンにお説教されるだけで済まされる。
彼らは、みな、高校総体や国体などで優勝したりした優秀なスポーツ選手である。学科で大学に合格したわけではなく、スポーツの成績だけが頼りだ。
学生の間にも優秀な成績を収めないと、大学にいる理由がなくなる。
だから、彼らはほぼ例外なく、練習熱心で、常に体を鍛え、真剣に部活動にいそしんでいる。
体がムキムキなのもそのせいだし、たたみで擦れて眉が薄くなったのだ。
人を見かけで判断してはならないことをよく物語っているだろう。
私の大切な友人たちは、それぞれの道を歩んでいる。
丸紅。朝通。体育の先生。JAL。サントリー。富士通。信越化学。南国殖産。建築士。塾の先生。マルハ。などなど。
そのうち、損保にいった一人は数年前に自ら命を絶った。
何かつらいことがあったのだろう。
上場企業に勤め、高給をもらいながら、美人の素敵な奥さんと、かわいい坊やたちを残し、お父さんとお母さんに先立った真相を私は知らない。
岡山でご両親に墓参りをさせていただいた。
その後、みんなでしみじみと語りあったものだ。ときどき会おう。そして悩みがあれば相談し合おう。
それが友達ってもんじゃないか。
結局、なかなか一同に会う機会が持てず、ばらばらとあっている。
「たいせん」のやつらと会うと、やはり楽しい。
後輩の話、職場の話、馬鹿話。
でも、剣道馬鹿のやつらは、最後は真剣な剣道談議になる。額に青筋を立てて(^^;)。
私は剣を捨てた身。知らぬが仏だ。そんな私も彼らは大切な仲間として扱ってくれる。
友達は少ない。だから、私も彼らを大切にするつもりだ。
理由があって、アメリカ法にしばらく凝っている。
以前は、心に余裕がなくて、日本の法律しか勉強しない!などと、
狭小なことを考えていた。
いろんな人に諭されたこともあるが、この歳になるまで
頑強に、幅を広げることに抵抗し続けてきたのだ。
しかし、必要に迫られて、いざ勉強をしてみると、やはり学ぶことがたいへんに多い。
今まで当たり前に思っていたことがガラガラと音を立てて崩れ去り、
日本の制度が客観的に、そして立体的に、全体像の中でパズルのピースがはまってくる。
アメリカは、知る人ぞ知る、コモンローの国である。
法律の制定過程から言うと、
上から制度を形づくっていく日本と異なり、
庶民の中で常識となっている事柄が裁判所によって取り上げられ、「法」を形成していく。
当然、日本のような難解な言葉もなく、平明な言葉が深い意味をもっているだけだ。
「法律」は、部分的にしか存在せず、慣習や常識のようなものが重要な意味を持つ。
たとえば、資本。
日本では、「資本金」という登記される形式が重要な意味をもっている。
最近は1円企業がちまたにあふれ、当社のクライアントにも資本金が1円のものが複数ある。
平時はそれでよい。
しかし、切った張ったの事態が生じた場合(倒産など)に、本当に資本金が1円で済まされるか。
アメリカでは、株主が資本金と別に会社に貸し付けをしているような場合、貸付金の一部も資本金であるとみなす判決がたくさんある。何が違うって?
倒産の場合には、借入は返済するが、資本は返済できない。借入の返済が全額できないときは、比例配分になる(債権者平等の原則)。株主に対して、借入に名を借りた資本の返済を拒絶するというのがその趣旨である。
また、税務の世界では、借り入れの金利はいわゆる経費になるが、資本の配当は経費にならない。そんな違いもあるのである。
実質主義がどんどん進んでいる。形は借入でも実質は資本。形は役員報酬でも、実質は株主配当。さまざまな実質化の流れの中で見えてきたのは、「実質」って、いったい何を言うのだろうという根本的な質問。
同時に、いつも述べるように、この世の中は、形式主義も進展している。ちょっとしたことで損をしたり得をしたり。
さてさて。我々、一般国民は、徹底的に賢くならなければならない。
上から法律を与えられるのではなく、自分たちの頭でしっかりと考え、責任をもって行動しよう。
アメリカについては、好き嫌いもあろうが、根源に根付いている思想は考えさせられる。
資本と借入の区別について、何度となく法制化の機会があったにもかかわらず、賢明なる判断でそれをまぬかれているという歴史をみたとき、私はアメリカ人の叡智や良心に触れた気がした。
彼らは、国民の自由を重んじ、簡単に法で規制しようなどとは思わない。
日本では、宗教や、思想などのセンシティブな事柄についてさえ、あけすけな規制をしがちだ。
アメリカでは、銃の規制についての一件をみてもわかるように、国民の自由を最優先に考えている。
危険と戦う自由。
日本人ならば、すぐに全部規制すればすむじゃないか、その間に尊い命が失われるぞ、というだろう。
銃に関しては、どちらが正しいということもないが、経済に関してはどうか。
あなたはどちら派だろうか?規制か?自由か?
どうも周囲が病気づいている。
ばあちゃんは脳梗塞で入院中。
東京の義母は乳癌だという。
私も、あちこちにガタがきはじめているのを感じる。
この歳になると、少しわかってきたことがある。
健康な体とは、病気をしないことでは必ずしもないということだ。
病気とうまく付き合うことが大切だ、という言葉の意味がようやく理解できるようになった。
我々は、何かと「完璧」を求めたがることはないだろうか。
完全な健康。完璧な仕事。100%の友情。円満な夫婦。全幅の信頼。理想の恋人。無上の幸福。エトセトラエトセトラ。
だが、実は「完璧」ということが文字通り100%であるとしたら、
そのような数学的な「完璧」は、世上存在していないのが事実である。
人を信じるな、他人を疑え、などと言うつもりは毛頭ない。
不確実の時代にあって、さまざまな予測不能な事態が生ずることはもちろん、人の心はとみにうつろいやすいものである。
だからこそ、正しいことをしていても、偉そうにしてはならないし、完璧だと思えても、決して傲慢になってはならない。「きっとこうだ」という確信があったとしても、常に謙虚に、期待を裏切られる可能性を信じていなければならない。
話がそれてきたな。
アメリカ式の合理主義ならば、古いものは捨て、新しいものに取り換えればよいのかもしれない。しかし、体はそうはいかない。手術をしてサイボーグにでもなるのならばいざ知らず、通常は年老いてあちこち壊れてくるのをだましだまし使用していかなければならないのである。
合理主義の本家本元でも、家はリフォームするのが普通である。いちいち建て直したりはしない。本当に大切なものは、メンテナンスをしながら大事に使うので当たり前である。
健康を誇っていた人が病気になると、家族のことを思い、医療費を気にし、自分を責めるようになる。
自分など死んでしまった方が良いのではないか、などという恐ろしい自己否定の罠にとらわれる。
義父は、2年前、不治の病の闘病中に、自ら死期を短縮する途を選んだ。
当時、私は大学院で生命倫理を学んでいた。
尊厳死とは何か。家族の献身的な犠牲もまた限りなく尊い。
ちっぽけな、疲れた肉体と裏腹に、人の精神とはいかに高尚で尊厳なる存在か。
自分なりに机上で考えた結論はあったけれども、
私は、義父の選択について、義母にも義妹にも、そして家内にも、何一つ触れることはしなかったし、またできるはずもなかった。ただおし黙って、皆と医師とともに、義父の心臓が止まるのを見守っていた。
義父はそのまま、帰らぬ人となった。
オシロスコープが空々しくピーと鳴っていた。
法を学び、生業としながら、私は何が正しいかを自ら考えることができなかった。
私はたった一人で犯罪者になった気がした。そう。正犯なき共犯者。私は義父の死を認識していた。
ゴルフが好きだった義父。彼は絵に描いたような慶応ボーイだった。急転直下の寝たきりで、彼は何度自分に落胆したことだろう。義父の気持ちを思うとやり切れない。そして、献身的に介護をした義母と義妹。
死ぬことが是か、非か。死を選ぶことはいけないことか。
誰も悪くない。誰一人として責めることはできないのだ。
ただ一人、自分自身を除いては。
QOLという言葉をご存じだろうか。
Quality Of Life 生命のクオリティである。
ターミナルケアの場合によくつかわれる言葉ではあるが、健康と病気が裏腹なものだとすれば、人生全般について問題となる。
私は今、強く思う。
死と生も、裏腹なのだ。
病気の人を憐れんだりはしない。全力で愛そう。
怖いけれど、死を意識して隣りあわせに暮らしていこう。
一日一日を、この一瞬一秒を、思うように、力いっぱい考えて、全力で何かしよう。
あなたが好きだ。大切に思っている。そんな気持ちがはっきりと伝わるように。
かつての罪を償うことなどできはしない。
新たな罪を犯さないことが最善であると思っている。
私が世の中で最も嫌いなものは、中途半端なことである。
中でも、特に社会の迷惑だと思うのが、お節介。
どこにでも首を突っ込んできて、口だけはまことに達者だが、責任は決して持たない。
自分はどれだけの才能があって、どれだけ立派な人なのか知らないけれど、
とにかく口を出さないと気がすまない。
そういう人に限って、質問すると途端に逃げ腰になるのが世の常だ。
こんな人を相手にしていても時間の無駄である。
適当に聞き流して、自分の中で基礎から強固にロジックを積み上げていくしかない。
最終的に責任を持つのは、他でもない、あなた自身なのであるから。
さて、お節介が嫌いだなどと言いながら、サムライの仕事は実はお節介なのである。
このあたりが、どうにも困ったところだ。
サムライの仕事は、法を抽象化すると、依頼を受けて、他人のために仕事をすること若しくは助言をすることなのである。
さらに、善良なる管理者の注意義務なるものがあって、専門家として気がつくことについては本人から頼まれていなくても親切に教えてあげなくてはならない。
公けの場へ行くと、この義務を果たしていないとすれば、下手をすると損害賠償の問題にまで発展する。
実は言い方がたいへん難しい部分で、短気な方だと爆発しかねない。
「俺は、あんたに仕事を手伝って欲しくてここへ来ているんだ。何もその仕事のリスクを聞きに来たわけじゃない!お節介もたいがいにしろ!」
ってなもんだ。
20代の頃に東京の下町で仕事をしたときは、「てめえ、敵なのか味方なのかはっきりしやがれ!」
などと、べらんめえ口調で怒鳴られたこともある。
そのあと妙に仲良くなったりして、今となっては笑い話だが、とにかく、嫌いなお節介をせざるを得ないというのが現状である。
ここで転んでもただでは起きないのが私の良いところ(?)で、
どうせリスクを負うのなら、それを「売りにすりゃーいいじゃねーか!あん?」
べらんめえで考えた(うそうそ。)のが、「あなたをまもる」というキャッチフレーズだ。
TKCの会計事務所は逆にリスクをなるべく負わないように注意しており、
全体の方向性として、全く逆をいくこの路線は、全国的にも珍しいであろう。
「崎山は阿呆だ。」などと、ヒトをトリ呼ばわりされるゆえんなのである。
お節介、ここに極まれり、などと開き直ったにせよ、実際の実務面としては半端ではない。
顧問料も市場並みにもかかわらず、リース・融資のあっせん・組立や、弁護士や司法書士のあっせん、さまざまなプランニングや不動産の仲介、仕事の紹介などなど、思いつきでいろんなサービスを提供しているが、ほとんど別料金をいただいていない。
そのくせ、無料であっても無責任なことができるわけもなく、自らの能力の限りを尽くして仕事に当たらなければならないわけだ。
うちの会社としての総合能力を考えれば、私を雇うのは実に安い買い物なのである(手前味噌)。
お節介は嫌いである。私はもともと個人主義の強い方だから。
それでも、仕事はお節介である。
お節介が仕事である。そう言い換えてもよい。
うわあ、と思うなかれ。
サムライというものは他人のための傭兵であるから、これは当然のことであると思う。
サムライ倫理の勉強をすると、公平とか、中立という言葉が出てくることがよくある。
公けの側面がさまざまな文脈の中で見え隠れすることも少なくない。
しかし、私の持論は、公とは個の集積であり、個の集積でない公など存在しないはずだ。
クライアントのために真の意味で全力を尽くすことが、結局は社会公共の福利につながっている。
社会の幸福とは、多数決ではなく、一人ひとりのクライアントの最大幸福の総和である。
私が目指す社会は、皆が、(社会学的な傾向として)7割満足しつつ、3割不満を感じているような社会。
断わっておくが、共産主義ではこれを実現することはできない。共産主義とは、実は経済的には資本主義の極端な一形態にすぎず、持てる者が単に国であるという違いがあるにすぎないと考えている。
国の行政法規はおしなべてお節介なものばかりである。
ロクに規制もできないくせに、ケチだけはつける。
私は「国家はいらない」
最近、抽象論や精神論に偏りがちだ。
今日は、子供のことでも書いてみようか。
上の子も5年生になった。
すっかり大きくなって、うしろ姿を見るといっぱしの大人のようである。
うちの家系にしてはほっそりと背が高く、いまどきの子で顔が小さい。
下の子も3年生だ。
チビチビと思っていたが、いつの間にか大きくなった。
ダジャレ娘は相変わらずなのだが、だいぶ自我が芽生えてきて、拗ねてみたりすることも多い。
今日は、珍しく7時には帰宅して、子供たちと食事をしたのだが、皿を片づけろと言うと言い方が気に食わなかったらしく、得意の固まり作戦に出た。
こうなると、下の子は意地になって動かない。
生真面目な私は真正面から勝負する。
一種の甘えであることは分かっているが、私はそんな甘えを許すほど大人ではない。
ビシッと厳しいことを言い放ち、部屋の外へ放り出す。
娘はシクシクと泣きながら廊下へ消えていった。
そのうち、上の子がやってきて言う。
「みのがいないの。」
さすがに心配になった私は、まず玄関をチェックしたのち、家じゅうを捜索したが、見つからない。
ようやく、小さな咳の音を頼りに、2段ベッドの下に隠れた小さな影を発見した。
デブの私では手も届かない。岩戸に隠れた天照大神のようなものである。
天ノウズメノ尊は楽しそうに踊るのだろうが、私にはそんな芸当ができるわけもなく、
もう一度、説得工作を試みた。
勉強のできる方ではないが、下の子は精神的には結構大人である。
また、私の教育方針は、小さいときから一人前として理屈や道徳を真正面からコンコンと説明することだ。
「不満があるなら堂々と言えばよい。ストライキやサボタージュに出るのは果してお前にとって得策といえるだろうか。」
「そこにいたら、寒いぞ。とっとと出てきて、パパのお尻を蹴っ飛ばしてごらん。すっきりするぞ。」
先週の日曜日にはこれでうまくいったのだ(その後、一度だけと言われて力いっぱいお尻を蹴られたが)。
しかし、今回は、心を閉ざして眠りの中に逃げ込もうとする。
させるか!アムロ・レイかシャア・アズナブルばりに(古いか)私は叫ぶ。
「逃げるな!それで事柄の解決になるか!弱虫!
いやなことと正面から向き合え!戦え!みの!」
何か思い当たる節があったらしく、ハッとした後で、ミノはシクシクと泣き始めた。
大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちるのが見える。
ここぞとばかりに、追い打ちをかける。
「さあ、みの。勇気を出して!ここへおいで。」
のろのろと差し出したみのの手を、間髪をいれず、掴まえて引っ張りだす。
おお、かわいいみの。よく勇気を出したね。
思い切り抱きしめて背中をさすってやった。体が冷え切っていた。本当に困った奴である。
すぐにお風呂に入って体をあっためてやる。
しばらく東京に里帰りに行っていたので、甘えたかったのもあるだろう。
また、平日にパパといることなどめったにない。ママが家にいないのも珍しい。
私は好きで怒っているのではない。子供たちのまことの成長のために怒っている。
子どもたちも、それを知っている。
しかし、感情に溺れると、自分をコントロールすることが難しくなる。
自分の弱さを知り、それを乗り越える勇気も身につけなさい。
心を閉ざして自分を偽るのではなく、他人と戦う勇気を持ちなさい。
正しいかどうかは分からない。子供を育てるのも仕事とおなじ暗中模索である。
しかし、私が理想とするのは、聡明で、なおかつ勇敢な女性である。
子供たちが素敵な大人になる日まで、私はしっかりと見守らなければならないのだ。
自分なりの子育てを一生懸命にするしかないのである。
ちょっと言葉の使いかたが違う点はお許し願おう。
私の言わんとするのは、自分にとっての最大の敵は自分を含めた自陣にあるということである。
私が常におそれるのは、自分自身の傲慢さである。
歯車が回り出すと、調子に乗って、怖いもの知らずになってしまう。
若いころは、実力もないのに自分に不可能はないなどと、今思えば大それた生意気野郎だった。
ドンキホーテのように風車にぶつかり、はね飛ばされて大けがをした。
たとえば、軽いものでは大学入試で失敗し、司法試験に落ちた。
だからこそ、今の慎重な自分がいるのかもしれない。
恥ずかしいことだが、乗り乗りのときの自分は、阿修羅のごとき強靭さで、事件をバッタバッタと片付けるようなイメージをもっている。
本当に恥ずかしい話だが、自分で自分が「俺ってすごいじゃん」などと思ってしまうのだ。
解決の難しい事件を、詰将棋のように落としていく。
自分の一手が、決まり手になったとき、自分がとても輝かしいことを成し遂げたような気がする。
お客様にたいへん喜ばれ、自分も誇らしく、ささやかに報酬もいただける嬉しい瞬間である。
気をつけなければならないのは、やはり傲慢である。
これは、社員の方にもよく考えていただきたい。
傲慢は、目を曇らせ、冷静さを失わせ、ときに他人を傷つけもする。
自分の思いつきが「完璧だ」、と思われるとき。
自分のやっていることが「正しい」と思えるとき。
他人のことを考えなくなったとき。
そんなときは、何か異常が起きていないかを恐れなければならない。
私は神を信じない。
しかし、言葉としては、こんな表現をするのを好む。
「神を畏れる気持ちをもつべし。」
サムライの責任はあまりに重い。
何か知らないことはないか。
何か気付かないことはないか。
何か忘れていることはないか。
別方向から問題になることはないか。
あとから正当性を証明できるか。
ない頭を絞って、一生懸命にリスクを計算している。
リスクを一生懸命に計算しながら、必死になって仕事をしている。
白鳥はその優雅さの裏で、足をジタバタと動かしている。
私は白鳥ではないが、これでも必死にもがき苦しんでいるのだ。
あやまりがないことを証明せよ。
このように、不可能な命題の証明を英語では「悪魔の証明」という。
証明するのは不可能だから、リスクをコントロールするのがセカンドベストだ。
かくして本当の私は、いつも臆病にリスクを計算しているのである。
無知の知って、素晴らしい言葉だ。
自信に満ち溢れた表面とは裏腹に、未知の恐怖に畏れおののきながら、道なき道を歩む。
そんな真実のサムライの姿を気づいていただければ幸いである。