つらい日々を過ごしている。
忙しさはいや増しにピークを迎え、
やがて年の瀬へ。
誰にも助けを求めることなどできはしない。
私は、暗闇をひた走る蒸気機関車のように、
ただ、もくもくと走り続ける。
私には使命がある。
たとえ自分が不幸であったとしても、
ほかに何か良い方法があるとしても、
今の私は止まることができない。
自分が選んだ道だ。
心残りはいくつもあるが、
弱い自分を切り捨てつつ、
先へ先へと進むしかないのだ。
謎めいて聞こえるだろうか?
どうせ、大したことはない。
風車に向かうドン・キホーテのように、
私の努力は花と散るであろう。
私の力など、50億の人間が織りなす社会には
はるかに及ばないものであることは明白である。
私は「法」という言葉が好きだ。
なぜ、そんなにこだわるのか?
親友の経済学者が私に問う。
今日、その答えらしきものを見つけた。
「法」=”LAW”は、秩序とも訳されることがあるように、
一般的には静的なものと考えられやすい。
しかし、法の生成過程や修正過程をも含めて考えるとき、
「秩序」はきわめてダイナミックな動態を表すとも考えられる。
私が好きでたまらない「法」という言葉は、
このような、みんなで話し合いをして決めたルール、という意味合いのものである。
学校で学級会を開いてルールを決めたことがあるだろう?
そのルールは、みんなが一生懸命に守ろうとしなかっただろうか?
掃除当番、給食当番、朝礼などなど。
なぜあなたはルールを守るのだろうか。
法を軽視する人はたくさんいるけれど、
彼らはルールを守るのに、どうして法を守らないのだろうか?
それは、自分が自分で決めたからだ。
先生に叱られるからではなく、友達ににらまれるからでもない。
法の拘束力の根拠は、このような、自己拘束にある。
自分が自分に約束したから、私たちは法を守るのであり、
法を守らないと警察に捕まるからではない。
喧嘩しあい、争いあい、主張しあい、
そして、お互いを理解しあい、
譲り合い、敬いあい、助け合う。
コミュニケーションは、社会において最も大切だ。
コミュニケーションがあるから、人々は交わり、社会を築くことができる。
互いを信じ、愛し、幸せを倍にすることができる。
私の信じる「法」は、コミュニケーションの結果としてのルールだ。
法は、静態ではない。
動態的にこそとらえられるべきものだ。
人が叡智をもつ霊長類と呼ばれるのが正しいのであれば、
話し合いの中にこそ、常に正しい道が存在するはずである。
三人寄れば、文殊の知恵。
ルールの実効性を高め、ルールの生成過程を重んじる。
これこそが、究極の真実なのだ。
私は、宗教のように、この究極の真実を追い求めている。
アフェクション。
私の法への偏愛は、この辺が原因なのである。
経済学者は、究極の真実を何か別の静態的なものに求めがちだ。
しかし、私流の考え方では、
この世の中に、絶対の真実などない。
その都度都度に、選択の幅があるだけだ。
だからこそ、手続こそが真実だ。
もっと正確に言うならば、
手続きの適正こそが、選択肢が真実であることを推定させる。
絶対の真実など―
神ならぬ私には、その存在すら証明できないのである。
独りよがりのブログを書き続けているなあ。
最後まで読んだ方は教えてください。
つらい生の中で、きっと励みになりますから。
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.ex-brain.jp/mt-cgi/mt-tb.cgi/241