大学生の時、人は尊厳なる存在であり、人権とは人類が多くの血を流して獲得しえた、貴重な教訓であることを学んだ。
しかし、大自然を前にして、津波や台風を目前にして、権利の侵害を叫んでみたところで何の意味があろう。
しょせん、権利とて、人の社会が作り出した特定の土俵の中のルールにすぎないのだ。
法は、評価規範であることを前提としつつも、結局は人に向けられた行為規範と禁止規範の累積でしかない。
津波や台風などの自然現象。
それだけではない。襲いかかる熊や虎に向かって、自らがアウグスツスであることを叫んで意味があるか。
さらに、天安門事件やリビアの事件のように、戦車と大砲の前で人権を叫んでも意味がないと思えること。
もっとおそろしいのは、8歳の子供が機関銃で笑いながら人を射殺するアフリカのショッキングなシーン。
私は、理想が先走るタイプの人間だが、46歳を数えた今、理想もかなり若いころとは形を変えている。
我々は、しょせんは宇宙の塵のような存在だ。
悩む私も、笑う私も、泣く私も、そのうち、あとかたも消えてなくなる。
有機物と無機物に分解されて質量は保存されたとしても、このような思索をする私はもはや存在しない。
意味論的には、やはり私はいなくなるのだ。
大切に人生を過ごしたいと思う。
身近な人を愛し、社員たちと、お客様たちと、面白おかしく、楽しい集団を形成したい。
何のてらいもなく、屈託なく、ためらいも、遠慮も、心配も、全部ありのままに受け止めよう。
政治も経済も、世界的に、融けるように崩壊しつつある。
国境の壁も崩れ、地球すら不都合な真実を抱えているという今。
自分にできることは、たった一つ。
正しいと思う道を、ただひたすらに、まっすぐ進むこと。
自らをとことんまで窮める。
脳を全開し、フルスロットルでできることをやる。
ここからは、常識も、世論も、国籍も、言語も、民族も、何もかも検討対象だ。
タブーはない。今日の日の誓いとする。