SNS全盛の時代。
任天堂のWiiの後継機種も、ソーシャルネットワークサービスの前ではかすむ。
だって、Facebookは、楽しい。
友人たちと、あったかい時間が過ぎて行く。
ゲームにはちと、分が悪いだろう。
クラウドのボックスをお客様に提供し始めた。
契約していただけるお客様は、SAASなんかよりもはるかに格安でクラウドシステムの給与ソフトを使用できるほか、ボックスの中に最新のデータが保管され、連絡は電子掲示板ですべて行える。
それだけではまだ足りないというので、事務所通信をPDFで入れ、なおかつ試算表に対する私のコメントを電子掲示板に書き込むことにした。
不思議なもので、私のコメントが案外、喜ばれたりする。
私はお客様をとても大切にしているので、そんな思いがちょっとは感じ取っていただけるのかもしれない。
注意をしているのは、
傷をつけるような言い方は絶対にしないが、かといって、決してお客様を甘やかしたりはしない。
お客様に、面倒なことを考えさせ、悩ませ、困難に立ち向かっていただくように仕向ける。
しかし、厳しくも励まし、勇気を与え、いつも私がそばにいます、というメッセージを付け加える。
そんなところだ。
私は、家にいても、会社にいても、暑苦しくて小うるさい父であり、上司である。
社員たちにも、家族にも、本当は適当に乗せられているだけだ。
自分が思うより、他人の評価というものは厳しいものだと思う。
でも、そんな私を、お客様たちは愛してくださる。
私の言葉を、一生懸命受け止め、反省し、勉強になったと言ってくださる。
困ったときは、まず私に相談してくださる。
「いつもお世話になります」
居場所のない私に居場所を作ってくれるお客様たちのために、
今日も私は全力を尽くすのだ。
合理的な最大限の期待値計算。
私がお客様に提供するのは、確率に支えられたより成功率の高い戦略と、ちょっとの勇気である。
それだけ。たったそれだけしかない。
貧乏ヒマナシな私は、最近とみにいろんな方にお会いする。
創業塾などでお会いする方々は、比較的アグレッシブで、名刺交換に来られる方も多いが、
法人会や、商工会などでお話をすると、 「アレ?」 誰も質問や名刺交換に来られなかったりする。
これは、講師にとっては多少の寂しさを禁じ得ないものである。
声も涸れよ、とばかりに情熱を込めた講演をして、会場を盛り上げてきたつもりが、
会が終わった途端に白けちゃっているのは
「祭りの後」とでもいうのか、さびしいものではないか。
世の社長たちは、 疲れているのか?
新しいことに次々とチャレンジし、失敗したり成功したり。
いい時もあれば、悪いときもある。
私など、いまだに家族中から 「負け犬」 呼ばわりである。
司法試験など、学生が簡単に受かる試験を、私がこれまた簡単に落第するのだから、
私とて反論のしようがない。
悔しいけれど、グーの音も出ないというところである。
ここはひとつ、発想を転換してみては?ということで、
私は、自分をあきらめた。
私は、しょせん、バカなのだろう。
やることなすこと、失敗だらけで、周りの大切な人たちさえ幸せにすることができない。
実業家のように、お金持ちになれるわけでもなく、
学者のように、優れた業績を残せるわけでもない。
歴史に名を残すなんて、とんでもない。
肩肘張って生きてきたが、とうとう、崎山は丸くなったということなのであろうか。
まあ、いいじゃないか。
広い広いこの地球に、或いは宇宙の中で、
私の生命など、チリみたいなものだ。
どうでもいいことにもがいてみたって仕方がない。
どうしたって、無理なものは無理だ。
齢45にして、何とかこんな境地にたどり着いたような気もしているのである。
しかし。(いよっ。待ってました!)
チリか、ゴキブリか。
そんな私も、実は一つだけ、絶対に自分を曲げることができない。
何なのか、自分でもよくわからずにいたが、言葉にするとこっぱずかしい。
ひょんなことで、自分が何にこだわっていたのか、悟った気がしている。
それは、「正義」という言葉だ。
先ほど述べたとおり、自分が何かすごいことができるなんて思ってるわけではない。
ただ、自分が生きてきた道のりをはるかに振り返り、
「あるべきものがあること」
こんなことに、私はとことんこだわろうとしてきた。
「正義」とは、恥ずかしいような意味では決してなく、
このような広い意味で、「あるべき」当為があってほしいという理想そのものなのである。
他人を助けたいと思うとき、とてつもなく、力が出てくる。
普段、怠け者で、頭のキレも悪く、ダメ人間の「負け犬」だけれど、
何か、突然、胸が熱くなることがある。
そんな時の私は、たいへん勤勉で、狡猾になり、勝つための手段も選ばない。
「許さん」
これだけで、私は、今まで何とか税理士業を営んでこれたのである。
世の中、どうも疲れモードが主流のようである。
何か、投げやりな人が多い気がしてならない。
欲もないし、上を目指すこともないし、
どうせ自分のことなど、誰も理解してくれない。
自分のことなんか、誰も何とも思っちゃいない。
こんなムードが漂ってくる人が、結構たくさんいる。
いけないですよ。そんな気持ちに取りつかれちゃ。
あなたは、いらない人なんかじゃない。
かくいう私だって、ゴキブリ扱いですよ。 負け犬ですよ。
変な人ですから、周りの人にも理解されませんよ。
でも、でも、それでも周りの人に話してごらんなさいよ。
すぐには理解されないので、当たり前ですよ。
だから、話しかけるのです。
話さなければ、あなたを知ることはできません。
逆に、話をして、わかってくれる人だったら、素敵じゃないですか。
一生の間に、一人か二人、ちゃんとわかってくれる人に出会うんじゃないでしょうか。
それで、いいんじゃないですか。
流されるのではなく、抵抗してみましょう。
敵わなくてもいいじゃないですか。
結局は、流されるのです。どうせ流されるなら、おもしろおかしく流されましょう。
もしかしたら、あなたの一言が、その人の人生を変えるかもしれません。
あなたの行動が、世界の因果を変えるかもしれません。
世界を変える。
そんな勇気をもってみませんか。
さあ、これを読んだあなた。
今日と違う明日を。
昨日と違う今日を歩みましょう。
あさ、 お会いした人に、「おはよう!」といってみましょう。
にっこり笑って、挨拶すると、世界が変わります。
腹が立ったら、怒ってみましょう。
その怒りが、世界を変えます。
少しでも、世界を変える努力を。
うーん、ひさしぶりに書くと、ダラダラ長かったかな。
ひたひたと、
世界を変える足音は
音も立てずにやってくる。
今日は、五七調で始まりました(^^; お粗末!!
インターネットが世界を変えた。
この事実は、
まぎれもない真実である。
昔、憲法で「表現の自由」(21条)を勉強した。
マス・メディアの存在によって、情報の送り手と受け手が分離し、
われわれは、一方的にテレビや新聞によって作られた情報を受け取るしかなく、
情報発信が事実上できない不自由な存在として、
そこには描かれていたはずだ。
さらに、知りたいことを知ることができるように、
憲法21条には、その含意として、
「知る権利」という表現の自由の現代的コロラリーがあるという。
そんなことまで、教科書には論じられ、実際に何件もの憲法裁判が起こされたものだ。
時代は変わった。
われわれは、インターネット上で、自由に表現を行うことができる。
2チャンネルで。ブログで。HPで。
そして、情報は網の目のように(WEB)、トラックバックやリンクによって結びつけられ、
あるいは、キーワードとして、検索エンジンによって関連付けられ、
いくつもの数限りないPCやメガサーバーをグローバルに結合して、
巨大なメディアを構成している。
私は、テレビを見なくなってしまった。新聞も読まなくなってしまった。
正確な情報源は、法律や官報や通達などの原始データで丁寧に拾う。
2次情報源は、うわさ話やインターネットで十分である。
インターネットが不特定多数のボランティアで構成された巨大なマス・メディアであることを
理解している人はどれほどいるのだろうか。
無法地帯である。
私はこの自由さが好きだ。
知りたいものは何でも調べることができる。
どこにいても、接続環境にあれば、いろんなことができる。
この地球上に、これほど自由な空間があるか?
あり得ない。
どこもかしこも、国家権力やら、所有権やら、土壌汚染やら地球温暖化やら環境破壊やら、
不自由な空間でいっぱいだ。
これを読んだあなた。
5千円で、不動産が買えると思いなさい。
ドメインを買って、ブログやホームページを作りなさい。
グーグルのサービスを満喫しなさい。
「電脳コイル」の世界は、今もうすぐそこに来ている。
アメリカの私法界を席巻した「不完全契約理論」の話をしたことを
覚えておられるだろうか。
要するに、完全など世の中にはあり得ないのだから、
最初から不完全を前提にしておくべきだという考え方だ。
たとえば、「私は株主総会で、決して発言しない」と約束したとする。
これは、配当優先・無議決権株式の場合に、現実に多々利用されてきたことで、
別に珍しいことではない。
しかし、発言しないと言っても、限度がある。
一般株主に優先して、先に配当をもらえる権利があるからこそ、
通常のことに関してはつべこべ言わないということだったはず。
景気が悪くて、配当が数年間も連続してもらえないとしたら、
本当に黙っているべきだろうか。
もっと卑近な例を考える。
「私は決して暴力に訴えない」
と、マルチン・ルーサーキングのような非暴力主義を標榜し、
自分が殴られていても我慢できるとして、
自分の大切にしている家族や恋人が危機に瀕していたら、
暴力に出ないでいられるか。
愛する者を守る行為は、正当防衛として刑法36条で違法性を阻却される正しい行為である。
約束が拘束力をもち、守らなければならないのは当然だ。
しかし、行間を読み、約束に例外があることが許されないと考えるのはあまりに硬直だ。
頭が固すぎると、かえって批判の対象となることだろう。
単純な言い方をすれば、契約(約束)とは、このような不完全なものであり、
きちんと解釈し、行間を読まなければ、もとより意味のないものなのである。
何が言いたいのか、少しわかった方もおられるかもしれない。
また来たか、としつこく感じられる方もお付き合い願いたい。
我々の世界に、法律はどれだけ必要なのか。
日本の法律の数の凄さといったら、とんでもない膨大さだ。
特に、行政法と呼ばれる分野がたいへんに多いことを知ってほしい。
たとえば、家を建てるのに、いくつの法律が絡んでいるだろう。
家を建てるのは、そんなに珍しいことでもないが、民法、建築基準法、都市計画法、住宅品質確保法などの膨大なすそ野が広がっている。住宅ローン制度が絡むと、さらに増える。
車を購入し、維持するのに、どれだけの法律が絡んでいるだろう。道路交通法、自賠責保険法、地方税法、自動車リサイクル法、道路運送車両法などなど。そしてそのすそ野に、国土交通省、地方出先機関、運輸局、警察庁、都道府県警察、運転免許センター、交通安全センター、リサイクルセンター、車検場、などなどのすさまじい労働人口が巣食っている。
本当に、法律は必要なのか。
われわれは、偉い人たちに政治を任せ、中身を見ずに丸投げしてきた。
しかし、よい国になったか?と問われれば、私は疑問をつけざるを得ない。
子供の教育の範囲は、国が決めなければならないのだろうか(最高裁の国家教育権説への疑問)。
交通ルールは、日本の隅々まで国が決める必要があるのだろうか。
商売を始めるのに、いちいち国の手続きをする必要があるのだろうか。
家を建てるのに、いちいち許可してもらう必要があるのだろうか。
疑問はとどまることを知らない。
日本は、君主主権国家から、民主主義の国家に変わった。
憲法は、私有財産制を認め、財産権を基本的人権の一つに数えている(憲法29条)。
しかし、土地は、今でも国の土地を所有させてもらっているのだ。
憲法には、営業の自由も職業選択の自由に含めているという(憲法22条)。
しかし、営業は、国に認めてもらわなければできないことがほとんどだ。
飲食店をかってに作れば、食品衛生法で逮捕され、起訴されて有罪となる。
この国の支配者は、国民のはずだが、
現実に支配しているのは、法律である。
法律は道具であり、意思がないのだから、
現実に支配しているのは、偉い人?
違うな。
知らしむべからず。よらしむべし。
明治の太政官はこんなことを言ったそうだ。
「国民に意味をわからせてはならん。ただ、従わせればよいのだ。」
現実の法律は、国民のためのものではない。
これは、国民を制約するための道具なのである。
さあ。あなたはどんな法律が必要だと思うか。
私は、簡単である。
「悪いことをしたら、だめだよ。」
あとは、全部話し合いで決めればよい。
税金なんぞ、しょせん、田舎のマンゾウである。
時代の進展とともに、いろんな新しい資格が誕生する。
以前は、政府筋からの資格の提供が多かったが、
ファイナンシャル・プランナーのあたりから(20年前くらいか?)、
民間の活力が目立つようになってきている。
時代の流れであろうか。
複雑になった現代国家は、すでに中央集権化して官が民に行く先を示すという旧来の政治モデルが通用しなくなりつつある。
私は無政府主義者ではないが、国に多くを期待する気持にはとてもなれない。
エンタの神様ではないが、「福田パニパニ政権」とひそかに銘打つ私である。
3月31日はもう近い。3月2日から参議院で審議が始まっている税制改正法案は、通過しなければたいへんな影響をわが国に及ぼすことになる。憲法59条2項4項によれば、衆議院の再可決はすでに途がない。
自ら退路を断った自民党には、4月1日以降の紛糾状態もきっちりと収拾する義務があるはずだ。
さて、先日の研修で、期せずして「ファシリテータ」「プロジェクトマネージャ」「コーチング」という三つのお話を聞くことができた。
共通するのは、新興の民間資格であること。
ファシリテータは、組織やグループの能力を最大限に引き出すことを目的とする技術を内容とする資格。
プロジェクトマネージャは、建設業のようなIT業界において、現場監督的な業務を内容とする資格。
コーチングは、社員に技術を教えるティーチングと対比される、社員の能力を引き出す技術を内容とする。
プロマネ(PM)は、どちらかというと内容的に新しいものではなく、業界がITという可視化を図りにくい特殊性のもとで成り立つものであると理解しているが、ファシリテータとコーチは、しょうしょう目新しい。もうひとつ、メンター(導師)というものも同列になってくるが、以前は、社員を育てる教育の技術の一つにすぎなかったものがくっきりとくくり出されて、一個の資格として形成されたような感じだ。
思想としては、次のような特徴を有しており、この点を理解されると話が早い。
すなわち、個人には様々な能力が備わっており、それを引き出し、組織に溶け込ませることを傍について一度道をつけてしまうのだ。方法を教えるのではなく、いっしょにやらせてみて、正しい道筋を実体験させるわけだ(コーチング)。また、自分は黒子に徹し、グループの構成員が発言を思い切りできるような環境作りに力を注ぐ(ファシリテータ)。
昔、ハーバード大学のビジネス・レビューでコーチングの特集記事を読んだことがあり、私は一度コーチングとやらを体験したことがある。すでに4年前になるか。おもしろかったし、たいへん勉強になったので、都合よくエッセンスだけをいただいて仕事に生かしている。お分かりと思うが、勉強しただけでできるようになるような生易しい内容ではない。日々これ研鑚である。
今回の研修では、いくつか貴重な示唆をいただいた。
「敵対する分子が存在するミーティングをうまく乗り切る技術はあるのか?」
という質問をしたのだが、講師の返答が少し不十分な気がして不完全燃焼だった私は、休憩時間に突然、天啓を受けたような気がして、疑問が氷解する思いがした。講師の返答は、私にとっては呼び水だったわけだ。その意味で、今回の講師は私の「メンター」である。
ここに書くような内容でもないので、お聞きになりたい方は直接にどうぞ。
簡単にいえば、「敵対するミーティング」というある種矛盾した表現にある。
今日は、来所したクライアントから、「敷金診断士」のお話を聞いた。
これも民間の資格だ。
国がどんどんパニパニ思考停止になれば、民間が活性化してくるようだ。
それでよい。
私たちの愛する祖国は、民によってこそ支えられ、運営され、その福利は民が享受するべきなのである。
「先生、もうばんざいした方がいいんやろか?」
いい会社もあれば、悪い会社もある。
確定申告の時期は、数百人の方が私のそばを通り抜けていくから、悲喜コモゴモを目の当たりにする時だ。
当社のクライアントだけではない。「税務援助」といって、税理士は商工会議所や市役所、税務署に出張して申告の記載の指導をするのだ。
今年もコマのように働いた。
肌で感じたのは、貪欲にいろんなことにチャレンジしている方が今年は所得が高い傾向があるということだ。
特に、この不況の時期にあえて創業された方々の健闘が目立つ。
歴史のある会社や、2代目の会社は比較的劣勢である。
業種的な特徴でいけば、医師、歯科医師、柔道整復師などの医業系はいつもよりも調子が良い。農業・漁業などの1次産業は落ち込みが目立ち、輸出関連企業は前期は絶好調である(円高が怖い!)。建設業は公共事業がメインのところはほぼ全滅状態で、民間中心の会社は比較的堅調である。不動産業は円熟してきたか。小売は強みがあると圧倒的な強さがある。特色のない商売はなかなか難しい。
さて、製造業やサービス業はもはやひとくくりにできるものではない。
先ほど述べたように、強いところと弱いところが完全に二極分化の傾向にある。
成功する秘訣とは何だろう?
同じ商品を扱っていても、同じサービスを提供しても、うまくいく会社とうまくいかない会社がある。
私にはその差が、ちょっとしたものに思えてならない。
明るさ…そんな表現もできる。プラスの磁場を作ること。くよくよと思い悩まないこと。冷静に計算できないのは困りものだが、100%の成功を期していたらいつまでたっても朝はこない。勇気を出して、一歩前に踏み出してみよう。
実行力…明るく、一歩前に踏み出したら、その次に必要になるのは、実現までこぎつける力。やると決めたら、四の五の言わずに最後までやりとおす。融通が利かないのは困りものだが、本筋さえ押さえれば、多少のことは目をつぶって必ずやり遂げること。途中で考え込んだり、くよくよしていては損失が拡大するだけだ。
勇気と、実行力を合わせると、「実現」という現象が起きる。
実現は、一度できると、自信になり、また次につながる。
何度も実現を繰り返すと、その回転が粗利益を生む。
粗利益は商売にとって最大の力である。コストを吸収し、また次のチャレンジに備える資金を生んでくれる。
小学生の計算問題を思い出してほしい。
一度しっかりと例題で練習し、
それを確認問題で繰り返してやってみる。
その解法は、次の応用問題に対するカギになっているのである。
商売は、勉強と同じだ。
勉強が嫌いなら、スポーツと同じだ、といってもよい。
自分の強みや弱みを分析して、特定の動きを特訓したり、筋肉の部位を強化したりする。
何も怖がることはない。
人が欲しがるものを売る限り、絶対に買ってくれる人がいるのである。
「ばんざいした方がいいんやろか?」
そんな時もあるかもしれない。うちには提携先の弁護士さんもおられ、民事再生も手がけたことも何度もある。官報には五万と破産や民事再生の事件が載っており、いまどき珍しくもない。
しかし、私は、あえて尋ねるようにしている。
「何を目的にして、倒産しますか?」
私はクライアントを究極的に守るのが仕事である。倒産だとて、クライアントの将来の幸福のためのワンシーンであり、一つの手立てにすぎない。
トータルに考えて、メリットが勝ればそれも八方ふさがりを打開する手段の一つになりえよう。
だが、メリットのない倒産話が多い。
目先のことだけを考えた倒産で、あなたは最後の幸せをつかめるか。
今一息つけたからといって、奥さんや子供たちを守れるのか。唯一の城である自宅を守ることができるか。
明日から生きていくための収入をどうやって調達するのか。
幸せが遠ざかるように思えるとき、かえって、傷口に塩を塗るようなことを言い放つ憎たらしい友になりたいと思っている。
もちろん、脱落をいっさい許さない、というのも厳しすぎるときもある。
本当に苦しんでいる人には、「今までよくがんばりましたね」と、声をかけてあげることもある。そんなときは、お客さまとともに泣く。生活が何とか成り立ちそうで、かつ、成功のハードルが高すぎるように思えるときは、そちらの方がよいような気がする。
暗い話になってきたので、もうやめよう。
冒頭に述べたように、いいところもあれば、悪いところもあるのだ。
金は天下のまわりもの。
おごれる平家は久しからず。
大切なのは、勇気と、実行力だ。
冷静な計算に裏打ちされつつ、熱いハートで立ち向かえ。
いったん始めたら、一区切りつくまで手を緩めるな。
達成したものだけがあなたの血肉となってあなたを強くするのだ、ということを忘れるな。
わたし流に、成功の秘訣を書いてみた。
ほんのちょっとの差が、ゴルフのショットのようにフェアウエイとOBを分ける。
信じるか、信じないかはあなたの自由である。
実は、2004年からen-Japanにプロフィールを登録している。
同HPは、ご存知の方も多いと思うが、簡単に説明しておくと、要するに幹部クラスの転職情報サイトである。最近は、「ハイクラス」という、年収が1000万円を超える転職情報が増え、たいへんな活況を呈している様子である。
初めの頃は、生保会社や証券会社の外交関係の仕事ばかりだったが、最近は外資系やマスメディア、金融系統からスカウトが入るようになった。年収条件を見ると、ハッとさせられることがある。
2500万円というのもあるのだ。
よっぽど今の生活よりもよくなるのじゃないの?
笑うに笑えない冗談なのである。
みんなの反対を押し切って大学院に行くとき、私は意図的にいろいろな賭けをした。お客様。家族。社員。役員。自分自身。そして、会社。人生を賭けた、文字通りの大博打だ。カジノで言う、All-In(オール・イン)である。思わぬ伏兵の税理士会でしくじったのがちと誤算であったし(内容は内緒)、司法試験に落第したのも誤算であったが、その他に関してはおおむね賭けに勝っているように思っている。掛け金が数百万円もした高い買い物であったので、財産はスッキリとなくなってしまったのであるが。
社員たちにとって自分が必要な人材なのかどうか。これも重要なポイントであった。おかしなことを言うと思う向きもあるかもしれないが、うちのように税理士が二人いる会社では不明確になりがちなところである。また、パートナー会社である(株)アップロードの人材派遣業なども複雑に絡んでいる。どの仕事にどの程度自分が関わっているのかを極めて明確に認識することができ、自分のスキルとお客様のニーズとのギャップや、社員たちが行っている日常業務と自分の距離感なども少し見えてきた。そんなわけで、有益であったとはいえるのだが、口で言うほど簡単なことではないことだけはわかって欲しい。会社べったりだった自分を無理やり引き剥がしたのであるから、それはそれは生皮を剥がすようなつらさであったのである。
私が思い描いていた会計事務所の絵は、まだ半分も描けてはいない。周囲の人は私が資格オタクであるとか、勉強が好きだとか、思いがちなのであるが、私は単に、自分が作りたい理想の事務所を作ろうとしているだけである。そのために必要なものが他にもたくさんある――。
フランチャイズの業務リーダー。
M&Aなどの投資銀行業務。
企業再生などDIPファイナンス系統。
財務コントローラ・CFO。
IR担当者。
東京の住所のままにしてある私のプロフィールをみて、さまざまなスカウトがやってくる。どれも面白そうだし、やりがいがありそうだ。一度かませてもらえれば、たちどころにうちの会社のノウハウとして応用する自信がある。3ヶ月くらいずつ働かせてもらうわけにはいかないのだろうか。きっといい仕事をしてこれると思っているのだが。
わが人生に後悔なし。
これが私の持論だったのだが、最近はうじうじと後悔することが多いようだ。
人生が最低3回は欲しいものである。
中国ビジネスは刺激的である。
スケールがそもそも日本と桁が違う。
壮絶なパワー。ハングリー精神。資本主義以上に資本主義である思想。人材を含めた資源の豊富さ。
現在では特に五輪を控えて、まさに高度成長期という言葉がぴったりくる。
私はクライアントにビジネスのヒントを提供する仕事をどんどん継続していきたいと考えているが、テーマの一つとして、中国ビジネスの面白さを捨象することはできない。
中国ビジネス研究会をクライアントの中から有志で結成しようか、目的を共同ビジネスの展開と設定して、スキームはうちで提案し(事業体としていかなる形式を考えるかを含め)、クライアント間のマッチングや共同ビジネスを中心に、究極の形としてはお金を出し合い、異業種共同体がエネルギッシュな意思決定機関を形成し、成果を全員で分担することがいろいろできる、というのが私の夢なのである。
税理士事務所には様々な種々雑多なクライアントが存在し、業種はほぼ網羅しているといってよい。これを上手に使わない手はないのだろう。理想形としては、広く門戸を広げて、企画を募集し、それを当社が実行可能な形に作り上げ、ニュービジネスの提案という形でクライアントに提案し、労力を割けるものは労力を提供していただき、金銭出資ができる人には融資若しくは社債、株の購入などの形で出資をしていただく。失敗はみなで分担し、利益が出ればみなにメリットがあるような、商法・会社法の王道を行く投資のあり方を積極的に提案していきたいものである。
クリアしなければならない点は多々あるが、足踏みをしていては進歩もない。私がいつも言うことだが、現在の法制度には、すばらしく多様なスキームが合法的に用意されているのである。LLP然り、会社法然り、匿名組合然り。
今の世の中は、単一のビジネスを営んでいること自体、リスクが存在する。クライアントを守るためにも、またクライアントに適合した自由なM&Aの可能性を提案するためにも、せっかく多数のクライアントがいるのであるから、ビジネスの種をたくさん蒔いて「夢と希望と感動」にあふれた企業経営を実行にうつしていきたいと考えているのである。
とりあえず、中国ビジネス研究会を発足させませんか?アドバイザーとして、私には中国の政界に通じるたいへん優秀な帰化人がいる。日本人だけで作る研究会もいいが、力のある方を中国の実業家を仲間に入れて、いろいろなビジネスの可能性を模索してみたら面白いと思うのですが……。