最近、友人諸氏に片っぱしから働きかけている。
フェイスブックである。
アカデミー賞の騒ぎでも取りざたされていたので、言葉を聞いたことはあるのではないか。
アフリカでは、エジプトなどの政権交代にも一役かった。
これだけ、WEBが発達し、グローバル化が進む中で、国籍のもつ意味が多少低下しているのは事実だ。
確かに、日本人であることは私のプライドであり、アイデンティティであり、日本とは、私の身近な大切な人々の象徴でもあるわけだ。
しかし、友人を増やすのに、あるいはバーチャルな世界で会話をするのに、国籍にどれだけの意味があろうか。
いつか、自分をあらわすのに国籍ではなく、フェイスブックだ、ツイッターだ、ハテナだとか、私はグーグルです、ヤフーです、バイドゥです、という会話をする日がくるに違いない。
私はそのように考えて、一人ほくそ笑んでいるのである。
「お宅はどちら?何をお使いなの?」
「あら、私はグーグルよ。フェイスブックを使っているわ。」
こんな時代に、リアルな住所が日本だろうが、アメリカだろうが、そんなことはどうでもよい。
我々は、すでにWEB上に住み始めているのである。
やってみよう。フェイスブック。
楽しい世界がそこにある。WEBは基本的にきままである。何事にも参加するかしないかも自由だ。
気楽なので、IDだけは取っておきましょうね。
私 は、ブラウザはクロームだし、メールはGメールだ。データは可能な限りクラウドスペースをあちこちに契約している。銀行もネットバンキング。買い物は楽 天。大好きなソフトはセールスフォース。アイフォンとアイパッドでリモートデスクトップも出来る。会計ソフトは弥生会計。
これ以上、今のところ、何も望むものはない。
私はクラウドのこよなき信奉者である。私には以前から夢見ている世界がある。
もはや現実のものとなりつつあるような気がするのだが…。
それは、私たちの肉体が存在しているリアルな世界と別な、
バーチャル世界(仮想現実世界)。
Yahoo! には、アバターというキャラクターがある。
もしも、これがWEB世界の中で動き出したらどうなるか?
会社から帰ると、あきらはすぐにパソコンのスイッチを入れた。
VR-ネットに接続する。すぐに仮想キャラクターのSAKIが現れた。
SAKIは、女性型キャラクタである。
今日はおしゃれをして、オープンしたばかりのMSショッピングモールに出かける予定だ。
オープン記念のバーゲンセールで、ドラゴン退治用のレイガンと、エネルギーチューブを新調するつもりだった。レアアイテムが並ぶ、フリーマーケットをのぞくのもよい。珍しい、魔法が売っているかもしれない。自分用のリアルのジャケットを買うのもよい。ボーナスが出たばかりで、あきらはすこぶる機嫌がよかった。
クローゼットからファン垂涎のお気に入りのアイテムを思い切り身につけ、ペットのベビー・ゴブリンを連れて、さあ、ショッピングに出発だ。
バーチャル世界の中には町が幾重にも重なる。
その町の中には、本物が買えるショッピングモールもあるが、自分のキャラクターのためのグッズも豊富に取り揃えられている。シャネルやディオールなども参入して、キャラクターのための仮想ドレスやアクセサリーなども出回りはじめる。町の郊外にはモンスターが棲む谷や山があり、よほどのつわものでないと一人で出歩くのは危険だ。気軽にチャットで友達を作り、パーティを組んで時には冒険に出かける。モンスターを倒すと、経験値が上がり、レベルアップすると魔法や必殺技を身につけることができるようになる。住宅街もあり、不動産を買うこともできる。仮想の家を建てる大工さんもいる。家の中には家具も買ってきて置くことができる。もちろん、みずから商売をしてもよい。現実にウエブ・キャッシュを稼得した場合は、所得税の雑所得となるかもしれない。
荒唐無稽と思うだろうか?
だが、スクエア・エニックスが開発したディプス・ファンタジアというオンラインゲームは、かなりこれに近い。あとは、リアル・マネーとウェブ・マネーの連続性が生まれるかどうかだけの問題である。
オンラインゲームの人口はここ数年で爆発的に増加し、昔のようにオタクと言われる特殊な人たちだけのものではなくなりつつある。韓国のオンラインゲームの様子をNHKが取材した番組を見たことがあるが、韓国は日本以上のようだ。実際にレアアイテムが取引され、自分のキャラクターをおしゃれにするために、ユーザたちはかなりのお金をネットに落とす。実際にペットを飼い、つがいにしてペットの子供まで育てているのだ。
古くは、TRON というアメリカ映画だった。
その後、2001年に押井守がアヴァロンを発表し、これに触発されたのが例のマトリクス三部作だ。
マトリクスが大ヒットしたことは皆さんの記憶にも新しいだろう。
キャラクタは、たまごっちだ。それから、空前のペットブーム。
これらの現象のさらに先にあるものは。
来る。近い将来きっと来る。
我々が自分の分身をネットの中で自由に闊歩させる時代がきっと来る。
このアイディアを、実現できる人はネット世界を支配するのかもしれない。
私は一人でほくそ笑んでいるのである。
監視社会の恐怖―エネミー・オブ・アメリカ
山手線に乗っていたら、「密告に報奨金を差し上げます」という政府系機関の吊り革広告に目を奪われた。知的財産権関係については、日本もベルヌ条約やパリ条約に批准し、WIPOなどにも加盟している。だから、権利保護のための方策も国際的な義務でもあるわけだが、何か危険なにおいがするのは国家的に「密告」を推奨するということだ。
ふと考えてみると、ちょっと危険なにおいのする事件はたくさんある。
独占禁止法の課徴金減免規定。「談合したら、一番に名乗り出て他の談合者を密告しなさい。そうすれば、あなただけが助かります。」
盗聴の合法化、おとり捜査の適法化などの刑事訴訟関係。姉歯事件に見られるように、今の警察は堂々と別件逮捕をおこなう。さらに共謀罪の創設により権限を強化するつもりだ。盗聴法反対の会議に参加した裁判官が懲戒の対象とされた(寺西判事補事件)。
憲法の改正論議。強制されなくても私は愛国心をもっているつもりだ。自衛力を強化するのも、今の憲法でできないわけではない。国民との対話を省略しようとするから話がややこしくなるのだ。
ちょっと人と違った行動をすると、不審者と思われ、即座に警察に通報される。先日も、うちの社員が私の自宅に書類を届けにやってきて、父の帰りを車中で待っていたところ、家内が不審者と勘違いして小さな騒ぎになった。
電車に乗るとき、女性の傍には近寄らない。階段を上るときは足元しか見ない。エスカレータでは携帯電話を触らない。女子高校生とは視線を合わせない。困っていそうな人を見かけても、安易な気持ちで助けようなどと思ってはならない。官報には道端で死後何日もたった人が毎日のように公告されている。
友人の会社に個人名で電話をすると、どんなご用件でしょうかと疑われる。
個人情報保護法や情報開示など、個人のプライバシーを守るという方向性はわかるが、いろいろ行き過ぎのきらいがあることについては誰もがうすうす感じているところではあるまいか。全体的に社会が疑心暗鬼状態に陥っていることは明白である。
IT大手のF社では裏づけのない財務支出をチェックするソフトを開発して売り出すそうだ。疑心暗鬼状態を逆手に取ったビジネスで、商魂たくましいと感じ入った(ひょっとしてやけくそ?)。昔のアメリカ映画でエネミー・オブ・アメリカという管理社会の恐怖を描いた作品があったが、少しずつ少しずつ、日本も友達を信じられない時代に突入しているのだろうか。一つ一つはつまらない笑い話であっても、次第に羊のように飼いならされて、管理社会の中にがんじがらめになっていくような、漠然とした恐怖を感じている。
衆愚政治―多数決の恐怖
もう一つ恐ろしいのは、犠牲者を求める社会心理である。罪のない誰かのひとことが増幅され、巨大なうねりを作る。中国が日本バッシングをしたのもWEBが中心的な役割を果たしたという。限られたマスコミが巨大な社会的権力を持ちえた時代はよほど安心だった。限られたマスコミに報道倫理を説けば結論が出たからである。
しかし、ネット社会は違う。2チャンネルの激烈苛烈な書き込みを見て、私はいろいろと考えさせられた。抑圧から解放された強大なエネルギーがそこには存在している。集団は必ず暴徒化すると論じてさんざん非難された最高裁判決があるが、必ずしも冗談では済まされないような空恐ろしさを今、あらためて感じざるをえない。
組織には、個人と異なる論理があるものだ。仕事柄、官公庁と戦うことが多いが、一人一人は話のわかる人間であったとしても、組織の論理に染め上げられてやってきたときにはそうはいかない。WEB社会は、ハイパーリンクによって本当に蜘蛛の巣(WEB)のように関連付けられ、体系化され、人知の及ばない拡大を続けている。SF映画のようにコンピュータが擬似人格を持つようなことを私は信じてはいないが、恐ろしいのは人心を煽り立て、撹乱し、一方向に人を駆り立てる強大な力である。そしてそれは、普通の人の無邪気なイノセンスから怒とうのように始まるということである。
NHKは、コンピュータでブログなどをサーチし、流行語を常に検索している。国会でも、「国民の」意見として、WEBなどの書き込みを取り上げている。官公庁でも電子政府と称して次々と聴聞手続などのネット化を推進している。常に多数意見が集約されて、それが国民の総意であると勘違いされたとしたら……。
結語―天邪鬼の礼讃
もはや流れを止めることはできない。ボーダレスのアングラ世界は、完全に社会の市民権をえた。私は医者ではないが、ITコーディネータの端くれとして、このIT社会に処方箋を書かねばならないとしたら何と書くか。
それは、個人には多様性があり、十人十色であること、人と人とは基本的に考え方が違うことが当たり前であることを認識することだ。悪いこともよいことも、人によって温度差があってよい。皆が、右へならえで犯罪者を憎まなくてもよい。皆がクールビズにならなくてもよい。皆がワールドカップの話をしなくたってよい。株式投資をしていなくてもよい。タバコをすってもよい。「チョイわる」でなくてもよい。臭いオヤジと女子高生に笑われてもよい。甲斐性がないと馬鹿にされてもよい。借金を返せないで足を投げ出したってよい。カッコウをつけず、どろくさく、はいつくばって、自分の人生を歩むことに目覚めよう。人にあわせるばかりじゃ疲れてしまうよ。